第30話 お互い秘密だらけでは、話が進みません
「……水瀬、先生?」
思わず名前を呼ぶと、水瀬先生は街灯の下で足を止め、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「あら、花川さん。こんなところで会うなんて奇遇ね」
「は、はい……」
「でも、もうずいぶん遅い時間でしょう?こんなところで何をしているの?」
それはこっちの台詞だ。
俺は目の前の女性を見つめながら、どう答えたものか迷っていた。
つい先ほどまで、俺は都市伝説研究部の面々と一緒に、深夜のコンビニで酒を買う謎の少女を調べていた。
そして、その少女が曲がり角を曲がった直後、忽然と姿を消したのである。
代わりに現れたのが、今こうして目の前に立っている水瀬先生だった。
「あの、水瀬先生。ひとつ聞いてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「ここに、小さい女の子が来ませんでした?」
「小さい女の子?」
「はい。小学生くらいに見える子なんですけど、ついさっき、この角を曲がったはずなんです」
水瀬先生は不思議そうに首を傾げた。
「あら?こんな時間に?いいえ、見ていないわ」
「……そう、ですか」
「ええ。どうかしたの?」
「いえ、その子を探していたので……」
俺は曖昧に答えたものの、どうにも納得できなかった。
少女が角を曲がってから、俺たちが追いつくまで十数秒ほどしか経っていない。しかも、曲がった先は見通しのよい一本道だった。
どこかの家に入った可能性はあるが、それにしたって姿が見えなくなるのが早すぎる。
それに、俺にはもうひとつ気になることがあった。
水瀬先生の右手には、缶ビールが握られていたのである。
しかも、すでに開封されている。
……この人、また飲んでるのか。
先日、自宅へ招かれたときもそうだった。俺の健康診断の結果を心配していたかと思えば、自分は平然とビールを取り出していたのである。
今日は車ではなく歩いているようだが、夜の住宅街を缶ビール片手に歩く美人女医というのも、なかなか珍しい光景だと思う。
もっとも、俺が気になったのはビールそのものではなかった。
先生の左手には、大きな買い物袋が提げられていた。
白いビニール袋の中には、何本もの缶が詰まっているらしい。先生が少し腕を動かすと、かすかな金属音が聞こえてきた。
そして、その袋には見覚えがあった。
つい先ほど、コンビニから出てきた少女が持っていたものと、よく似ているのである。
「…………」
偶然だろうか。
袋なんてどこのコンビニでも似たようなものだし、酒を買ったからといって何かの証拠になるわけではない。
しかし、少女が消えた場所に水瀬先生が現れ、しかも同じような買い物袋を持っているとなれば、さすがに気になってしまう。
何より、俺はこの先生が普通とは違う事情を抱えていることを知っていた。
「あの、先生。その袋って……」
「ああ、これ?」
水瀬先生は何でもないことのように袋を持ち上げた。
「ちょっと買い物をしてきたの。冷蔵庫の中が寂しくなってしまってね」
「……そうなんですか」
「ええ。花川さんも、買い忘れには気をつけたほうがいいわよ」
先生はにっこり笑った。
妙に含みのある言い方だったが、こちらから尋ねる前に話を切り上げられてしまった。
俺は改めて水瀬先生を見つめた。
すっきりとしたショートボブの黒髪に、整った顔立ち。知的で落ち着いた雰囲気は、健康診断で初めて会ったときと何も変わらない。
だが、今の俺には、その穏やかな笑顔が何かを隠しているように見えて仕方なかった。
以前、先生の家で聞いた言葉が頭をよぎる。
『今の私でいるためには、普通の人には必要のないものが必要なのよ』
あのとき先生は、自分にも特別な事情があると認めていた。
俺は少し迷ったあと、意を決して口を開いた。
「……先生って、もしかして……さっきの少……」
「あら、花川さん」
「は、はい?」
「以前、私が何て言ったか覚えている?」
水瀬先生は俺の言葉を遮るように尋ねた。
「以前……ですか?」
「ええ。私の家でお話ししたときのことよ」
俺は記憶をたどった。
健康診断のあと、先生の車に乗せられ、そのまま自宅へ連れていかれた日のことだ。
あのとき、先生は自分にも秘密があると認めながら、肝心なところは教えてくれなかった。
『もう少しお互いを知ってから話すわ』
……ああ、そうだった。
「……覚えてます」
「ふふっ。よかった」
水瀬先生は満足そうにうなずいた。そして、少し考えるように視線を上げたあと、いたずらっぽく微笑んだ。
「じゃあ、こうしましょうか」
「……何ですか?」
「花川さんが本当のあなたについて教えてくれたら、私も口を開くわ。それなら公平でしょう?」
「…………っ!」
俺は思わず言葉を失った。
本当の俺。
それが何を意味しているのか、説明されるまでもなかった。
水瀬先生は、俺が何かを隠していることに気づいている。おそらく、普通の女子高生ではないというところまでは察しているのだろう。
ただ、具体的にどこまで分かっているのかは不明だった。
俺が本当は花川正由という男であること。
酒を飲むと今の姿になり、時間が経つと元に戻ること。
そして、存在しないはずの花川麻由という少女として、白玲学園へ通っていること。
そんな事情を全部説明しろと言われても、簡単に口にできるはずがなかった。
「……本当の私、ですか?」
「ええ」
「それは、その……」
「無理にとは言わないわよ」
先生は静かに続けた。
「ただ、私にも事情があるの。あなたに何もかも話してもらおうとは思っていないけれど、こちらだけが一方的に秘密を明かすのも、少し不公平でしょう?」
「……それは、そうですけど」
「だから、お互いが話せると思ったときでいいのよ」
その言葉を聞いて、俺は黙り込んだ。
正論だった。
俺は先生の正体を知りたがっているくせに、自分のこととなると何ひとつ話そうとしていない。
相手の秘密だけ教えてほしいというのは、確かに都合がよすぎる。
とはいえ、今の俺には簡単に話せない理由がある。
ようやく始まった二度目の高校生活。
麗奈と友達になり、七原や遥とも知り合い、毎日が少しずつ楽しくなってきたところなのだ。
もし本当のことを知られたら、この生活がどうなるか分からない。
水瀬先生が悪い人ではないと思っていても、そこまで信用していいのか判断するには、まだ付き合いが短すぎた。
「……すみません。今は、ちょっと……」
俺が小さな声で答えると、水瀬先生は優しく微笑んだ。
「ふふっ。じゃあしばらくは、お互いまだ秘密ね」
「すいません……」
「謝ることはないわ。秘密を話すかどうかは、あなたが決めることだし、私が無理に聞き出すものではないわ」
そう言われると、ますます申し訳なくなってくる。
この先生、時々ずるいくらい優しいんだよな。
もっとも、さっきから俺の質問を全部かわしているあたり、やっぱり相当ずるい人でもあるのだが。
「さて、それじゃあ私はそろそろ帰るわね」
「あっ、はい……」
水瀬先生は歩き出そうとしたが、ふと思い出したように足を止めた。
「そうそう。花川さん」
「はい?」
「こんな夜中に、お酒が入っている女子高生が一人で歩いていたら危ないわよ。早く帰りなさいね」
「……の、飲んでませんよ!」
俺は反射的に否定した。
もちろん嘘である。
今夜も麻由の姿で外出するために酒を飲んでいるのだから、先生の指摘は間違っていない。
ただ、ここで素直に認めるわけにもいかなかった。
「あら、そうなの?」
「はい!今日は普通に友達と出かけていただけです!」
「ふふっ。そういうことにしておきましょうか」
「……先生、絶対信じてませんよね」
「どうかしら?」
水瀬先生は楽しそうに笑った。
……この人、本当に意地が悪い。
「でも、似た体質同士、いろいろ苦労するわね」
「…………」
「それと、お酒を休めるときはちゃんと休みなさいよ。いろいろ事情があるのは分かるけれど、身体に負担がかかっていることまで忘れちゃ駄目よ」
「……だから、飲んでませんってば」
「あら、そうだったわね」
水瀬先生は口元に手を当て、くすくす笑った。
どう考えても信じていない。
「まあ、健康診断の結果も気になっているから、何かあったら相談してちょうだいね」
「……分かりました」
「それじゃあ、おやすみなさい。気をつけて帰るのよ」
「あ、はい。先生も気をつけて……」
「ありがとう。またね、花川さん」
そう言い残し、水瀬先生は夜の住宅街を歩いていった。
右手には缶ビール。左手には、大量の酒が入っているらしい買い物袋。
その後ろ姿を見送りながら、俺は何とも言えない気持ちになっていた。
少女が消えた場所に水瀬先生がいたことも、よく似た買い物袋を持っていたことも、……結局、何も聞けなかった。
何より、先生の事情に踏み込もうとした途端、自分の秘密について尋ね返されてしまったのである。
あれでは、それ以上追及することなどできなかった。
俺はしばらくその場に立ち尽くしたあと、ようやく家へ向かって歩き始めた。
ふと、先日水瀬先生の家で聞いた言葉を思い出した。
『健康診断の結果が少し気になったの。それと、あなたが何かを一人で抱えているように見えたから』
『だから、相談できる相手がいると知ってほしかったのよ』
……そうだったな。
あの人は、最初から俺の秘密を暴こうとしていたわけじゃない。
何か事情を抱えている俺を心配して、相談できる相手になろうとしてくれたのだ。
もちろん、だからといって何でも信用していいわけではない。
だが、少なくとも今のところ、先生が俺を困らせようとしているようには見えなかった。
むしろ、何度も俺の健康を気遣ってくれている。
それなのに、俺は先生の正体を知りたいという気持ちばかりが先走っていた。
「……俺も、少しは考えないとな」
そんなことを考えながら歩いていると、スマホが震えた。
画面には、坂井遥からのメッセージが表示されていた。
『麻由ちゃん、ちゃんと帰れてる?今日はすごかったね!あの女の子、どこに消えちゃったんだろう?』
「…………」
俺は思わず苦笑した。
遥たちは、今夜の出来事をどう考えているのだろう。
明日の学校では、きっと大騒ぎになるに違いない。
解散した後、女医の水瀬先生に会ったことを話すべきか迷ったが、結局やめておいた。
先生が何かを隠しているとしても、それを勝手に言いふらすのはよくない。
何より、俺自身が秘密を抱えているのだから、人のことをあれこれ言える立場ではなかった。
『うん、大丈夫!今日はびっくりしたね。また学校で話そう!』
そう返信すると、すぐに可愛らしいスタンプが返ってきた。
どうやら遥は、まだ興奮が冷めていないらしい。
俺はスマホをしまい、再び歩き始めた。
水瀬先生の秘密を知りたいなら、俺もいつか、自分のことを正直に話さなければならないのかもしれない。
「……はあ。難しいもんだな」
俺は小さくため息をついた。




