第26話 小学生にしか見えない少女が、ビールを大量購入していました
水瀬先生の家を出た頃には、空がすっかり夕焼け色に染まっていた。
「……はあ。疲れた」
俺は住宅街を歩きながら、大きくため息をついた。
結局、あれから水瀬先生とは連絡先を交換し、また何かあれば相談するということで話がまとまった。
ただし、お互いの正体については明かしていない。
俺は自分が本当は花川正由という男であることを話さなかったし、水瀬先生も自分の事情について詳しく説明しようとはしなかった。
分かったのは、俺たちが似たような特殊な体質を持っているらしいということだけだ。
それでも、俺にとっては大きな発見だった。
今まで、自分の身体に起きていることは世界で俺一人だけの奇妙な現象だと思っていた。それが、まさかこんな身近に似た事情を抱えた人間がいるとは。
「……世の中、分からないもんだな」
ちなみに、水瀬先生からは車で送ろうかと申し出があったのだが、丁重に断っておいた。
何しろ、あの人は酒を飲んでいると堂々と告白したのである。
本人には何か事情があるらしいが、だからといって飲酒運転の車に乗るのは怖すぎる。
幸い、先生の家から俺の自宅までは歩いて帰れる距離だった。
夕方の風に長い黒髪を揺らしながら、俺は家路を急いだ。
自宅に到着すると、真っ先に時計を確認した。
「……そろそろかな」
朝から飲んだビールに加え、今日は水瀬先生の家へ入る前に酒入りチョコレートも一粒食べている。
おかげでまだ麻由の姿を保っているが、いつ元に戻ってもおかしくない。
俺は急いで自分の部屋へ向かい、制服を脱ぎ始めた。
ブラウスを脱ぎ、スカートを外し、下着も男物に替える。最後にゆったりとした部屋着を身につければ準備完了だ。
「よし。これなら大丈夫だな」
制服をハンガーにかけ、ソファに腰を下ろす。
しばらくテレビを眺めていると、ほどなくして身体にいつもの感覚が訪れた。
「あ……」
視界の高さが変わり、肩にかかっていた長い髪が短くなっていく。
数秒後、窓に映っていたのは見慣れた花川正由の姿だった。
「……ふう。間に合った……。さて、夕飯でも作るか」
男に戻るまでを一区切りとしていた俺はキッチンへ向かった。
冷蔵庫から豚肉と野菜を取り出し、適当に炒め物を作る。皿に盛りつけ、炊いておいたご飯と一緒に食卓へ並べた。
そして、いつもの癖で冷蔵庫へ手を伸ばしかける。
「……いや、待て」
今日はやめておこう。
昨日は飲みすぎて吐いたし、今朝の健康診断では血圧や尿検査で気になる結果が出ている。
さすがに少しは身体をいたわったほうがいい。
それに、明日も学校があるのだ。
「……よし。今日は飲まない!」
俺はそう宣言すると、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
健康的な夕食である。
ただし、炒め物を口に運ぶたびに、冷たいビールが欲しくなるのが困りものだった。
夕食を終え、風呂にも入った俺は、いつもより早めにベッドへ潜り込んだ。
時計を見ると、まだ午後八時を少し回ったところである。
「……寝ちまえば、飲みたい気持ちも忘れるだろ」
我ながら名案だと思った。
明日も朝から学校なのだから、早寝早起きはむしろ理想的な生活習慣ではないか。
俺は部屋の明かりを消し、目を閉じた。
…………。
………………。
「……寝られん」
当然だった。
普段ならまだテレビを見たり、スマホをいじったりしている時間である。いくら疲れているとはいえ、こんな時間から急に眠れるはずがない。
寝返りを打ち、もう一度目を閉じる。
しかし、こういうときに限って余計なことばかり考えてしまう。
今日の健康診断。
水瀬先生の秘密。
そして、冷蔵庫に入っているはずのビール。
「……飲みたいなあ」
駄目だ。
今日は飲まないと決めたじゃないか。
俺は布団を頭までかぶった。
ところが、一度意識してしまうと、なかなか頭から離れてくれない。
結局、眠るのを諦めてスマホをいじり始めた。
ニュースを読み、動画を眺め、適当に時間を潰す。
そして、ふと時計を確認したときだった。
「……えっ、もう十一時?」
いつの間にか三時間近く経っていた。
早く寝るつもりだったのに、結局いつもと大して変わらない時間になってしまった。
しかも、眠気はまったくない。
「……一本くらいなら」
思わず口から漏れた言葉に、自分でも呆れた。
あれだけ決心したのに、もう心が折れかけている。
俺はしばらく葛藤したあと、ふらふらとベッドを抜け出した。
「……冷蔵庫を見るだけだからな」
誰に言い訳しているのか分からない。
キッチンへ向かい、冷蔵庫の扉を開ける。
しかし。
「…………あれ?」
ビールがない。
一本もない。
奥まで確認してみたが、見事なほど空っぽだった。
「……ああ、そうだった」
昨日の夜、竹内との一件でやけ酒を飲んだとき、残っていた分をほとんど飲み尽くしてしまったのだ。
そして今朝、最後の二本を飲んで学校へ行った。
「……まずいな」
いや、今夜飲めないことが問題なのではない。
明日の朝だ。
明日も学校へ行く以上、準備しておかなければ困ることになる。
「……仕方ない。買いに行くか」
決して今すぐ飲みたいからではない。
あくまで明日のためである。
我ながら見事な言い訳だと思いながら、俺は上着を羽織って家を出た。
深夜の住宅街は静まり返っていた。
近所のコンビニまでは歩いて数分。夜風に当たりながら歩いていると、少しだけ頭がすっきりしてくる。
店内へ入ると、明るい照明と聞き慣れた入店音が俺を迎えた。
「いらっしゃいませー」
俺は飲み物の棚へ向かおうとしたのだが、途中で見覚えのある女性が目に入った。
「……ん?」
私服姿ではあるが、間違いない。
白玲学園一年二組の担任、永井彩未先生だった。
「……永井先生?」
思わず声をかけそうになり、慌てて口を閉じる。
危ない危ない。
今の俺は男だった。
先生が知っているのは女子生徒の花川麻由である。こんなところで見知らぬ男から突然名前を呼ばれたら、不審に思われるに決まっている。
俺は何食わぬ顔で商品棚へ視線を戻した。
しかし、先生の様子がどうにも気になる。
「んふふ……こっちもおいしそうねえ」
……酔ってるな、あれ。
しかも、結構。
頬は赤く、目元も少しとろんとしている。手に持った買い物かごには、ビールやチューハイ、それにチーズやスナック菓子などのつまみがぎっしり詰まっていた。
「……うわあ」
昨日は二日酔いであんなに辛そうだったのに、もうこれか。
先生、明日も学校あるんですよ?
大丈夫なんですか?
俺が心の中で突っ込んでいると、永井先生はさらに缶チューハイを一本かごへ追加した。
「ふふっ、これも買っちゃお」
……いや、買っちゃお、じゃないんですよ。
明日学校、ちゃんと来てくださいね。
もっとも、健康診断で注意されたその日の夜に酒を買いに来ている俺も、人のことは言えないのだが。
そんなことを考えながらビールを選んでいると、少し離れた棚の前に小さな人影が見えた。
「……ん?」
一人の少女だった。
小柄な体格に、幼さの残る顔立ち。どう見ても小学生くらいにしか見えない。
……こんな時間に?
時計はすでに午後十一時を過ぎている。
保護者と一緒なのだろうかと思って周囲を見回したが、それらしい大人は見当たらなかった。
危なくないか?
こんな夜中に小さな女の子が一人で買い物なんて。
俺が心配になって様子を見ていると、少女は商品棚から何かを取り、かごへ入れた。
……ん?
今、何を入れた?
俺は思わず目を細めた。
少女が手にしていたのは、どう見ても缶ビールだった。
「…………は?」
いやいや、待て待て。
何で小学生がビールを買ってるんだ?
しかも少女は慣れた手つきで別の銘柄も取り、次々とかごへ入れていく。
一本、二本、三本。
……おいおいおい。
ちょっと待ってくれ!
いくらなんでも駄目だろ、それ!
俺は思わず周囲を見回した。
しかし、店員はレジで別の客を対応しており、少女の買い物には気づいていないようだった。
もしかして、家族に頼まれたのだろうか。
いや、それでも子供だけで酒を買えるわけがない。
声をかけるべきか迷っているうちに、少女はかごを抱えてレジへ向かっていった。
俺は思わず、その様子を目で追った。
「いらっしゃいませ。こちら全部でよろしいですか?」
「はい。お願いします」
少女は落ち着いた声で答えた。
見た目に反して、ずいぶんしっかりした話し方をする子だった。
店員が商品を読み取っていく。
しかし、かごから次々と出てくる缶ビールを見て、さすがに不審に思ったらしい。
「あの、お客様。こちらお酒になりますので、年齢確認をお願いできますか?」
……そりゃそうだ。
俺は心の中で大きくうなずいた。
当然の対応である。
ところが、少女はまったく慌てなかった。
「はい。分かりました」
小さなバッグから財布を取り出し、一枚のカードを店員へ差し出す。
「こちらで大丈夫ですか?」
「あ、はい。確認いたしますね」
店員はカードを受け取り、記載された内容へ目を落とした。
そして。
「……えっ?」
動きが止まった。
少女の顔を見る。
カードを見る。
もう一度、少女の顔を見る。
……おい、何だその反応は。
店員はしばらくカードを見つめたあと、小さな声で呟いた。
「……二十歳……?」
「はい」
「……えっ、二十歳!?」
思わず声が漏れてしまったらしい。
店員は慌てて頭を下げた。
「し、失礼いたしました!確認できましたので、お会計を続けますね!」
「はい。よく間違えられるので、お気になさらず」
少女はにっこりと微笑んだ。
…………。
……は?
二十歳?
今、二十歳って言ったか?
あの子が?
どう見ても小学生くらいにしか見えない、あの女の子が?
「……いやいやいや」
思わず小声で呟いてしまった。
確かに世の中には童顔の人もいる。
実際、俺だって麻由の姿で竹内に会ったとき、二十歳を超えていると言い張ったばかりだ。
だから、見た目だけで年齢を判断できないということは理解しているつもりである。
……理解しているつもりなんだけど。
それにしたって、限度があるだろ!
少女は会計を終えると、大量のビールが入った袋を受け取り、何事もなかったように店を出ていった。
俺はその小さな背中を、ただ呆然と見送った。
「…………」
……何だったんだ、今の。
つい数日前、麻由の姿でコンビニへ来たときには、未成年に見えるという理由で酒を売ってもらえなかった。
それなのに、今の少女は身分証を提示して、何の問題もなく購入していったのである。
……いや、待てよ。
今日、水瀬先生とあんな話をしたばかりだから、つい妙な想像をしてしまう。
でも、俺みたいな人間がいて、水瀬先生みたいな人までいるのだ。
だったら、あの少女だって……。
「……まさかな」
俺は小さく首を振った。
考えすぎだ。
きっと、ものすごく童顔な二十歳の女性なのだろう。
そう自分に言い聞かせた、そのときだった。
「んふふ~、明日は何飲もうかしら~」
背後から聞き覚えのある声が響いた。
振り返ると、永井先生が大量の酒とつまみを入れたかごを抱え、上機嫌でレジへ向かっていた。
……先生。
麻由が成人になった頃には付き合いますよ。
俺は心の中で突っ込みながら、自分の手元にあるビールを見下ろした。
美人の女医さんは酒を飲んでいると告白し、担任の先生は深夜に酒を買い込み、小学生にしか見えない少女まで大量のビールを購入している。
……何なんだ、この町は。
俺の周り、酒好きしかいないのか?
いや、よく考えたら一番どうしようもないのは俺自身かもしれない。
健康診断で注意されたその日の夜に、こうして酒を買いに来ているのだから。
「……はあ」
俺は小さくため息をつき、缶ビールを数本かごへ入れた。
……どうやらこの町には、俺の知らない秘密が、まだまだ隠れているのかもしれない。




