似た者同士?美人女医さんとの秘密の会話
「さあ、花川さん。遠慮しないで入ってちょうだい」
車を降りた女医さんは、何事もなかったように玄関へ向かっていった。
俺はその背中を見送りながら、鞄の中をそっと探る。
……まずいな。
時計を見ると、朝からずいぶん時間が経っていた。そろそろ例の問題を考えなければならない。
幸い、鞄には昨日の買い物でも持ち歩いていたチョコレートが残っている。
俺は女医さんが玄関の鍵を開けている隙に、包み紙を剥がして一粒を口へ放り込んだ。
甘い味の奥に、少しだけ独特の風味が広がる。
これでひとまず安心だろう。
「花川さん?」
「ひゃいっ!」
突然声をかけられ、妙な返事をしてしまった。
「あら、お菓子を食べていたの?」
「は、はい!ちょっとお腹が空いちゃって!」
「ふふっ。育ち盛りだものね。中にお菓子もあるから、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
育ち盛り。
なんとも懐かしい響きである。
俺の実年齢でそんなことを言われたら、間違いなく笑ってしまうところだ。
それにしても、健康診断で会ったばかりの生徒を自宅へ招くなんて、この人は一体何を考えているのだろう。
そもそも、俺はこの女医さんの名前すら知らない。健康診断のときは緊張していて、名札を確認する余裕もなかったのだ。
「どうぞ、上がって」
「お、お邪魔します」
案内された家の中は、落ち着いた雰囲気だった。
リビングには大きな本棚があり、医学書らしい分厚い本が並んでいる。部屋もきれいに片づいていて、いかにも知的な女性の住まいという感じだ。
俺の部屋とは大違いである。
「そちらに座っていて。飲み物を持ってくるわね」
女医さんはキッチンへ向かい、やがて麦茶の入ったグラスを二つ持って戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
俺がグラスを受け取ると、女医さんは向かいのソファに腰を下ろした。
「そういえば、まだちゃんと自己紹介していなかったわね。私は水瀬千尋。普段は病院に勤めているんだけど、今日は白玲学園の健康診断を担当していたの」
「あ、水瀬先生ですね。私は花川麻由です」
「ええ、知っているわ」
水瀬先生はくすりと笑った。
そりゃそうだ。健康診断の記録を見ていたんだから。
「それで、花川さん。さっそくだけど、少し聞いてもいいかしら?」
「は、はい」
「今朝、お酒を飲んできたでしょう?」
「…………っ!」
いきなりそれか!
俺は危うく麦茶を吹き出しそうになった。
「の、飲んでませんよ!」
「本当に?」
「本当です!」
水瀬先生は俺の顔をじっと見つめた。
その視線が妙に鋭く感じられ、思わず背筋が伸びる。
「……そう。じゃあ、今も何か隠していることがあるんじゃない?」
「そ、そんなことありません!」
「ふふっ。ずいぶん頑固なのね」
先生はそれ以上追及せず、穏やかに微笑んだ。
「ちなみに、私は飲んでいるわ」
「……へえ、そうなんですか……」
俺は反射的に相づちを打った。
そして、数秒遅れて意味を理解した。
「…………え?せ、先生……さっき、車を運転してましたよね?」
「ええ」
「学校の近くで私を乗せて、ここまで運転してきましたよね?」
「そうね」
「それなのに、お酒を飲んでるって……」
水瀬先生は涼しい顔でうなずいた。
「ええ、そういうことになるわね」
「い、飲酒運転じゃないですか!?」
俺は思わずソファから立ち上がった。
何を堂々と告白しているんだ、この人は!
医者だろ!健康診断で生徒の体調を心配していた人間が、そんなことをしていいわけがないだろう!
「ちょっと、花川さん。落ち着いて」
「落ち着けませんよ!先生、お医者さんですよね!?」
「もちろんよ。あなたの心配ももっともだわ。運転については、私が軽く考えていいことではないわね」
先生はそこで一度言葉を切り、俺の顔を見た。
「ただ、私には少し事情があるの」
「事情?」
「ええ。今の私でいるためには、普通の人には必要のないものが必要なのよ」
「…………は?」
俺はぴたりと動きを止めた。
今の私でいるため。
その言葉が頭の中で何度も繰り返される。
「……先生、今、何て?」
「少し変わった体質なの。自分でも、まだ全部を説明できるわけじゃないけれど」
「…………」
俺はゆっくりとソファに座り直した。
待て。
待ってくれ。
それって、まさか。
「……私と、似ている……?」
思わず口から漏れた言葉に、水瀬先生は静かに微笑んだ。
「やっぱりね」
「えっ?」
「あなたにも、何か事情があるのね」
「ち、違っ……!」
否定しようとして、言葉が詰まった。
水瀬先生は、俺の事情をすべて知っているわけではないらしい。
だが、何か普通ではないことが起きていると察しているのは間違いなさそうだった。
「安心して。無理に話さなくてもいいわ」
「……本当ですか?」
「ええ。今日ここに来てもらったのも、あなたを問い詰めるためじゃないの」
先生は落ち着いた声で続けた。
「健康診断の結果が少し気になったの。それと、あなたが何かを一人で抱えているように見えたから」
「…………」
「だから、相談できる相手がいると知ってほしかったのよ」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
とはいえ、まだ安心するには早い。
この先生、どう考えても普通じゃない。
「ちょっと待っていてね」
水瀬先生は立ち上がると、キッチンへ向かった。
やがて冷蔵庫の扉が開く音がして、何かを取り出す気配がした。
そして。
プシュッ。
「…………え?」
聞き覚えのある音が響いた。
戻ってきた先生の手には、開けたばかりの缶ビールが握られていた。
「せ、先生!?」
「なあに?」
「それ、ビールですよね!?」
「ええ」
「いや、ええ、じゃなくて!」
水瀬先生は缶をテーブルに置き、俺の反応を見て小さく笑った。
さっきまでの知的で落ち着いた女医さんという印象が、どんどん崩れていく。
先生はそんな俺を眺めながら、少し真剣な表情になった。
「でもね、花川さん。あなたについては少し確認させてもらったの」
「……確認?」
「ええ。健康診断の記録を見ていて、気になることがあったから」
嫌な予感がした。
「あなた、昨日から白玲学園に通い始めた転校生でしょう?」
「は、はい」
「しかも、かなり特殊な事情で入学したそうね」
「…………っ!」
俺は息をのんだ。
どうしてそこまで知っているんだ。
「先生、どうしてそれを……?」
「白川理事長に、少し確認したのよ」
「理事長に!?」
「ええ。以前の学校の健康診断の資料が見当たらなかったから、学校側に問い合わせたの。そうしたら、特別編入制度で入学した生徒だと聞いたわ」
俺は思わず顔をしかめた。
よりによって、そこを調べられたのか。
「戸籍に関する書類も、通常とは少し違う扱いになっているそうね」
「…………」
まずい。
非常にまずい。
俺には花川正由としての戸籍はあるが、花川麻由という少女の戸籍は存在しない。
それを説明するのが難しいからこそ、宗一郎さんは特別編入制度なんてものを作ってくれたのだ。
「理事長ご自身もあなたの詳しい事情までは知らないみたいだったし、仮に知っていても、個人情報の問題があるから話せないわよね」
「そ、そうですか……」
「ただ、あなたが普通の転校生ではないことだけは分かったの」
水瀬先生は俺の表情を見つめながら、静かに続けた。
「それと、健康診断でお酒のことを尋ねたでしょう?」
「……はい」
「あれは、検査結果だけで決めつけたわけじゃないの。あなたの様子が、以前の私によく似ていたから」
「以前の先生?」
「ええ。何かを隠そうとして、かえって不自然になってしまうところがね」
俺は黙り込んだ。
どうやら、この先生には最初からかなり怪しまれていたらしい。
「……先生は、どこまで分かっているんですか?」
恐る恐る尋ねると、水瀬先生は少し考えるように首を傾げた。
「全部ではないわ。でも、あなたが今の生活を続けるために、何か特別な事情を抱えていることは分かるつもりよ」
「…………」
「それに、今朝のこともね」
俺の心臓が跳ねた。
「……今朝?」
「あなたが否定していることよ」
水瀬先生は、それ以上はっきりと言わなかった。
だが、その目を見れば十分だった。
……バレている。
少なくとも、朝のあれについては。
「……先生、学校に言うんですか?」
声が小さくなった。
昨日、ようやく始まった高校生活。
麗奈と同じ教室で授業を受け、友達と話して、普通の学生として過ごせるようになったばかりなのだ。
ここで何か問題になれば、すべてが台無しになってしまうかもしれない。
水瀬先生は、そんな俺を見て穏やかに首を振った。
「そんな事はしないわ」
「……本当ですか?」
「ええ。ただし、健康に関わることだから、何もなかったことにはできないわよ。必要な確認はするし、危険があるなら適切に対応する。それは医者として当然でしょう?」
「……はい」
「でも、あなたの事情を勝手に決めつけたり、面白半分に言いふらしたりはしない。そこは安心して」
俺はようやく息を吐いた。
全部が解決したわけではない。
それでも、今すぐ学校中に知られるようなことにはならなさそうだ。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
水瀬先生は優しく微笑んだ。
だが、俺にはまだ大きな疑問が残っている。
「……先生」
「なあに?」
「さっき、今の先生でいるためには特別なものが必要だって言いましたよね?」
「ええ」
「それって、先生も……普段は違う姿だったりするんですか?」
水瀬先生は少し考えたあと、ゆっくりとうなずいた。
「そういうことになるわね」
「…………っ!」
俺は思わず身を乗り出した。
「じゃ、じゃあ!先生も、もしかして普段は男だったりするんですか!?」
水瀬先生は目を丸くした。
そして次の瞬間、口元を押さえて笑い始めた。
「ふふっ……あははっ!そう来たのね!」
「えっ!?ち、違うんですか!?」
「ごめんなさい。そこまで想像してくれるとは思わなくて」
先生はしばらく笑ったあと、ようやく落ち着きを取り戻した。
「なるほど。あなたの場合は、そういう可能性もあるのね」
「…………あ」
しまった。
俺は口を押さえた。
今の質問、完全に自爆じゃないか!
「花川さん。あなた、思っていた以上に面白い子ね」
「い、いや、今のは……!」
「大丈夫。無理に聞き出したりしないわ」
水瀬先生はそう言うと、テーブルの上の缶に目を落とした。
「でも、ひとつだけ訂正させてちょうだい。私は、あなたとまったく同じというわけではないの」
「えっ?」
「似ているところはある。でも、事情まで同じとは限らないでしょう?」
「それは……そうですけど」
「私のことも、もう少しお互いを知ってから話すわ」
「えええっ!?そこまで話しておいて!?」
「ふふっ。お互い、秘密が多いみたいだから」
……ずるい。
この人、絶対にずるい。
こっちは何も説明していないつもりなのに、勝手にいろいろ察されている。
そのくせ、先生のほうは肝心なところを教えてくれない。
俺はソファに深くもたれかかり、天井を見上げた。
今日は平和な一日になるはずだった。
普通に授業を受けて、友達と話して、家へ帰る。それだけで十分だったのに。
どうして俺は今、美人女医の自宅で、こんなとんでもない話をしているんだろう。




