第24話 健康診断の続きが、なぜか先生の自宅です
健康診断を終えて一年二組の教室へ戻ったのは、一限目が終わったあとの休み時間だった。
「……やっと戻ってこられた」
教室では、クラスメイトたちが楽しそうにおしゃべりをしていた。
俺は自分の席へ向かいながら、小さくため息をつく。
まさか健康診断で、あんなに疲れるとは思わなかった。
尿検査では気になる反応が出るし、血圧も高め。おまけに最後の診察では、美人の女医さんから今朝の飲酒について尋ねられてしまった。
どうして分かったのかは謎だが、あの先生の最後の言葉も気になる。
『どんなに変わった悩みでも、私は驚かないから』
……まさか、俺の身体について何か気づいているのだろうか。
いや、考えすぎか。
そんなことを考えながら鞄を開けていると、隣の席の女子が声をかけてきた。
「あっ、花川さん!おかえり!」
「ただいま。健康診断、思ったより時間かかっちゃった」
「そうだね。一限目、丸ごといなかったもんね」
「うん。授業に出られなかったの、ちょっと残念だな」
「ああ、でも今日は自習だったよ?」
「…………え?」
俺は思わず顔を上げた。
「自習?」
「うん。先生が急用で来られなくなったんだって。プリントだけ配られて、あとは各自で勉強してたよ」
「……マジか」
自習。
なんて懐かしい響きだろう。
高校生だった頃、突然先生が休みになって自習になると、妙に嬉しかったものだ。
もちろん、勉強しなくていいわけではない。課題が出されることもあるし、別の先生が見回りに来ることだってある。
それでも、普段の授業とは違うあの自由な空気。
予定外にもらえた、ちょっとしたボーナス時間。
あれこそ学生生活の醍醐味のひとつではないだろうか。
「うわあ……羨ましい!」
「えっ?そんなに?」
「だって自習だよ?いいなあ!」
俺が興奮気味に答えると、隣の女子はくすくす笑った。
「花川さんって、自習が好きなんだね」
「好きというか、なんか特別感があるじゃん!」
「まあ、授業が急になくなると嬉しいよね」
「そうそう!あの得した感じ!」
分かってくれるか。
社会人になると、こういうささやかな喜びとは縁遠くなる。
……まあ、俺の場合は会社そのものがなくなったんだけど。
あれはまったく嬉しくなかったな。
「麻由さん!」
そんな話をしていると、麗奈がこちらへやってきた。
「おかえりなさいませ!健康診断は無事に終わりましたの?」
「あ、麗奈ちゃん。ただいま」
「ずいぶん長かったので、心配しておりましたわ」
「うん。いろいろ検査があってね」
「それで、結果はいかがでしたの?」
「えっと……微妙かも」
「まあ!微妙、ですの?」
麗奈の表情が曇った。
「どこかお悪いところでもございましたの?」
「いや、まだそう決まったわけじゃないよ。ちょっと気になるところがあったみたいで、詳しい結果はあとから確認するんだって」
「そうでしたの……」
麗奈は心配そうに俺を見つめた。
「昨日も体育のあとに具合が悪くなっていらっしゃいましたし、無理はなさらないでくださいませね」
「うん。ありがとう。でも、今は元気だから大丈夫だよ」
「本当ですの?」
「本当、本当!」
俺が笑ってみせると、麗奈もようやく微笑んでくれた。
「何かございましたら、遠慮なくわたくしを頼ってくださいませ」
「ありがとう、麗奈ちゃん」
こうして心配してくれる友達がいるというのは、なかなか嬉しいものだ。
もっとも、俺の抱えている問題は、麗奈に相談したところでどうにもならない気がするけど。
「そういえば麗奈ちゃん、一限目は自習だったんだって?」
「ええ。先生が急用でいらっしゃらなくなりまして」
「いいなあ。私も参加したかったよ」
「まあ!麻由さんは本当に勉強熱心なのですね!」
「……え?」
「わたくしも自習は大好きですわ。今日は数学の問題集を少し先まで進めましたの!」
「……そ、そうなんだ」
違う。
そういう意味じゃないんだ。
俺にとっての自習はボーナス時間だが、麗奈にとっては自主的に勉強を進める時間らしい。
さすが学年トップ。
同じ言葉なのに、ここまで受け取り方が違うとは。
俺が何とも言えない気持ちになっていると、次の授業の予鈴が鳴った。
「それでは麻由さん、またあとで!」
「うん。またね」
麗奈が自分の席へ戻っていく。
俺も教科書を開き、気持ちを切り替えた。
健康診断ではいろいろあったが、まだ高校生活二日目だ。
これから先、自習の機会くらいいくらでもあるだろう。
……たぶん。
☆☆
そのあとの学校生活は、驚くほど平和だった。
授業を受けて、休み時間にはクラスメイトと話し、昼休みには麗奈と一緒に昼食を食べた。
昨日のように体育で倒れそうになることもなければ、誰かに秘密を知られそうになることもない。
午後の授業では少し眠くなったが、そこは何とか耐えた。
黒板に書かれた内容をノートに写しながら、俺は妙な満足感を覚えていた。
これだよ、これ。
俺が求めていた高校生活は。
毎日何かしらの事件が起きていたら、身が持たない。
普通に勉強して、友達と話して、放課後になったら家へ帰る。
そんな何でもない一日が、今の俺には新鮮で楽しかった。
そして、放課後。
「……終わったぁ」
最後の授業が終わり、俺は大きく伸びをした。
今日は本当に、普通の女子高生として過ごせた気がする。
朝の健康診断さえ除けば、だが。
「麻由さん、今日はこのあとご予定がございますの?」
帰り支度をしていると、麗奈が声をかけてきた。
「いや、特にないけど、今日はまっすぐ帰ろうかな」
「そうですのね。では、また明日ですわ!」
「うん。また明日!」
麗奈と別れ、俺は一人で校門を出た。
夕方の風が心地よく、歩くたびに長い黒髪が揺れる。
昨日は麗奈と買い物へ行ったが、今日は寄り道する予定もない。
「いやあ、平和だなあ」
思わず独り言が漏れた。
授業が終わって、友達に挨拶して、家へ帰る。
ただそれだけなのに、何だか楽しい。
三十五歳にもなって、もう一度こんな気分を味わえるとは思わなかった。
「明日もこんな感じだといいなあ」
そんなことを呟きながら、学校から少し離れた道を歩いていた、そのときだった。
プッ、プッ。
「……ん?」
すぐ近くで車のクラクションが鳴った。
振り返ると、一台の乗用車がゆっくりと路肩に寄ってくる。
俺、何かしたか?
別に道路へ飛び出した覚えもないし、車の邪魔になるような歩き方もしていない。
不思議に思っていると、運転席の窓が下がった。
「あら、やっぱり花川さんだったのね」
「……え?」
車の中から顔を出した女性を見て、俺は目を丸くした。
肩まで伸びた黒髪に、整った顔立ち。
今朝の健康診断で俺を診察した、あの美人の女医さんだった。
「えっ!?先生!?」
どうしてこんなところに?
いや、学校の健康診断を担当していたのだから、近くにいても不思議ではないのかもしれない。
だが、わざわざ車を止めて声をかけてくる理由が分からない。
先生は穏やかに微笑んだ。
「花川さん、このあと少しお時間あるかしら?」
「えっ?」
「ちょっとお話ししたいことがあるの」
「お話、ですか?」
「ええ。今朝の健康診断のことでね」
「…………っ!」
俺は思わず背筋を伸ばした。
健康診断。
その言葉だけで、嫌な予感がしてくる。
「な、何か問題があったんですか?」
「ここでは少し話しにくいことなの。落ち着いた場所でお話しできればと思って」
「は、はあ……」
落ち着いた場所?
それなら学校の保健室でもよさそうなものだが。
先生は俺の不安を察したのか、優しく笑った。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。少し確認したいことがあるだけだから」
「そ、そうなんですか……」
「ええ。どうかしら?」
正直、あまり気が進まない。
だが、今朝の検査結果については俺も気になっていた。
それに、この先生が何か知っているのなら、話を聞いてみたい気持ちもある。
「あ……はい」
「ありがとう。じゃあ、乗ってちょうだい」
「…………え?」
「車。ここに長く止めておくわけにもいかないから」
「あ、はい……」
俺は戸惑いながら助手席の扉を開けた。
シートに腰を下ろし、シートベルトを締める。
……ん?
待てよ。
この展開、どこかで経験したことがあるぞ。
突然車が止まり、中の人から声をかけられ、そのまま乗ることになる。
「…………あ」
思い出した。
麗奈の家の運転手さんに声をかけられたときだ。
あのときも、突然黒い高級車が現れて、宗一郎さんに会ってほしいと言われたんだった。
そして、連れていかれた先は白玲学園の理事長室。
結果的には高校へ通えることになったのだから、悪い出来事ではなかった。
……いや、だからといって今回も同じとは限らないけど。
というか、よく考えたらおかしくないか?
出会って間もない人に車へ乗るよう言われて、ほとんど躊躇なく乗り込んでしまう俺もたいがいだと思う。
しかも、これで二回目である。
三十五年も生きてきて、何を学んできたんだ俺は。
相手が美人だからって、警戒心がなくなりすぎじゃないか?
……いや、今回は学校の健康診断を担当した先生だし、さすがに大丈夫だろう。
たぶん。
「それじゃ、行きましょうか」
「は、はい……」
車がゆっくりと走り出した。
窓の外には、見慣れた通学路が流れていく。
先生は運転に集中しているらしく、しばらく何も話さなかった。
俺も何を聞けばいいのか分からず、膝の上の鞄を握りしめていた。
いったい、どこへ向かっているのだろう。
病院だろうか。それとも、先生の勤務している診療所か何かだろうか。
そんなことを考えているうちに、車は大通りを離れ、静かな住宅街へ入っていった。
「……あれ?」
周囲には普通の一戸建てが並んでいる。
病院らしい建物は見当たらない。
先生はそのまま住宅街の奥へ進み、やがて一軒の家の前で車を止めた。
「はい、到着よ」
「……え?」
俺は窓の外を見た。
小さな庭に、きれいに手入れされた植木。玄関の横には可愛らしい花の鉢植えが並んでいる。
どう見ても普通の住宅だった。
「あの……先生?」
「なあに?」
「ここって、どこですか?」
先生は不思議そうに瞬きをしたあと、あっさり答えた。
「私の家よ」
「…………」
……は?
「えっ?」
「どうしたの?」
「いや、あの……先生の、お家?」
「ええ。そうよ」
…………。
ちょっと待ってくれ。
俺は健康診断のことで話があると言われたんだよな?
だから、てっきり病院か何かへ行くものだと思っていた。
それが、どうして。
どうして美人女医の自宅に連れてこられているんだ!?
先生はエンジンを切ると、何事もないように微笑んだ。
「さあ、花川さん。中へどうぞ」
「…………え?」
俺は助手席に座ったまま、目の前の家を見つめた。
今日こそは、普通の女子高生として平和な一日を終えられると思っていたのに。
……というか俺も俺だ。前回もそうだが、行き先くらい聞いてから乗れよ。




