第23話 注射に泣く不良少女と、診察に怯える俺
「……花川、先に行かないでよ」
保健室へ向かう廊下で、七原愛が俺の制服の袖をつかんだ。
金髪に着崩した制服という、いかにも不良少女を目指している彼女だが、今日はどうにも落ち着かない様子である。
「七原さん、そんなに注射が怖いの?」
「はあ!?怖くないって!ただ、一緒に来たんだから最後まで付き合うのが普通じゃん?」
強気に言い返してくるものの、袖をつかむ手にはしっかり力が入っている。どうやら注射を怖がるのは格好悪いという、本人なりのプライドがあるらしい。
もっとも、俺も笑ってばかりはいられなかった。
何しろ今朝は、いつもどおりビールを二本飲んできている。昨日は体育で走ったあとに気分が悪くなって吐いてしまったばかりだし、健康診断なんて嫌な予感しかしない。
何も起こらないことを祈りながら、俺たちは検査会場へ入った。
最初は身体測定だった。身長と体重を測り、続いて視力検査へ向かう。
今の身体で視力を測るのは初めてだったが、結果は左右とも一・五。以前の俺は長年のパソコン仕事で視力が落ちていたので、思わず嬉しくなってしまった。
「花川さん、よく見えていますね」
「ありがとうございます!」
続く聴力検査も問題なし。ヘッドホンから聞こえる小さな音に合わせてボタンを押すだけで、あっさり終了した。
「花川、ずいぶん余裕じゃん」
「そうかな?」
「まあ、あたしもこのくらい楽勝だけどね」
七原は腕を組んで得意げに笑っていたが、その視線は何度も採血の場所へ向いている。
本人は隠しているつもりなのだろうが、実に分かりやすい。
次に案内されたのは尿検査だった。
検査用のコップを受け取り、指定されたトイレへ向かう。今の身体で学校のトイレを利用することには少し慣れてきたものの、こうして検査まで受けることになるとは思わなかった。
本当に高校生活を一からやり直しているんだなと、妙なところで実感してしまう。
採尿を済ませて検査場所へ戻ると、看護師さんがその場で試験紙を使って確認を始めた。
俺は何となく落ち着かない気持ちで待っていたのだが、結果を見た看護師さんが小さく首を傾げた。
「……ん?あら……」
おいおい、何だその反応は。
俺が恐る恐る尋ねると、看護師さんは穏やかな口調で答えた。
「少し気になる反応がありますね。念のため、後で先生にも確認してもらいましょう」
「えっ!?何か問題があるんですか?」
「この検査だけでは詳しいことは分かりませんから、今は心配しすぎないでくださいね」
優しく言われたものの、俺は全然安心できなかった。
もしかして今朝のビールが影響しているのだろうか。それとも、この身体に何か異常があるのか。考えれば考えるほど不安になってくる。
しかも、次の血圧測定でも看護師さんが首を傾げた。
「少し高めですね。もう一度測りましょうか」
測り直しても結果はあまり変わらなかったらしく、緊張の影響かもしれないが、こちらも医師に確認してもらうことになった。
……おかしい。
健康診断って、こんなに何度も確認されるものだったか?
俺が不安を募らせていると、次の検査が告げられた。
「それでは、採血を始めます」
その瞬間、隣にいた七原の動きがぴたりと止まった。
「七原さん、大丈夫?」
「余裕だって。注射くらいで騒ぐわけないじゃん」
そう言いながら、俺の袖を握る力が強くなる。
……説得力がまるでない。
「七原愛さん、こちらへどうぞ」
名前を呼ばれた七原は一度深呼吸すると、ようやく俺の袖から手を離した。
「じゃ、ちょっと行ってくるわ」
「うん。頑張ってね」
「だから余裕だって!」
強気に笑ってみせる七原だったが、採血用の椅子へ向かう足取りは明らかに重かった。
採血は一人ずつ行われるため、俺は少し離れた待機場所から見守ることになった。
看護師さんに注射は苦手かと尋ねられた七原は、全然平気だと答えていた。しかし、準備が始まると表情はみるみるこわばり、いざ採血となった瞬間、小さな悲鳴が漏れた。
「ひゃっ!……っ、く……」
慌てて口を閉じたものの、目尻には早くも涙が浮かんでいる。
必死に平静を保とうとしていたが、やがて一粒、また一粒と涙が頬を伝い始めた。
「七原さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……です。ちょっと、目にゴミ入っただけなんで……」
そんな都合よくゴミが入るか、と突っ込みたくなったが、本人は至って真剣だった。
唇をきゅっと結び、声を漏らすまいと必死に耐えている。それでも涙は止まらず、とうとう小さく鼻をすすり始めた。
……強がらなくてもいいのにな。
看護師さんは落ち着いた声で励ましながら、無理のないように採血を終えた。
七原は終わったと聞くなり素早く目元を拭い、何事もなかったような顔で戻ってきた。
「ふふん。まあ、こんなもんでしょ」
「うん。頑張ったね」
「別に頑張るほどのことじゃないし!」
そう言ったあと、七原は俺に顔を近づけ、小さな声で尋ねてきた。
「……さっきの、見てないよね?」
「うん。何も見てないよ」
「……ならいいけど」
ほっと息を吐く七原の目元は、まだ少し赤かった。
もちろん全部見ていたのだが、そこは黙っておくことにする。本人のプライドを傷つける必要はないだろう。
続いて俺の番が来た。
注射自体はそれほど怖くないが、採った血液から何が分かるのかと思うと、どうにも落ち着かない。
それでも採血は驚くほどあっさり終わり、俺はようやく胸をなで下ろした。
そのあともいくつか検査を受け、いよいよ最後の診察となった。
ここまで来れば何とかなるだろうと自分に言い聞かせながら診察室へ入った俺は、そこで思わず目を見開いた。
「こんにちは。花川さんね?」
そこにいたのは、白衣を着た若い女性医師だった。
すっきりとしたショートボブの黒髪がよく似合う、整った顔立ちの美人である。落ち着いた雰囲気があり、どこか知的な印象を受けた。
「は、はい!よろしくお願いします!」
「ふふっ。そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
……おお、美人の女医さんじゃないか。
正直、少し安心した。
別に男性医師が悪いわけではないが、今の身体で診察を受けるのは初めてだ。女性の先生のほうが、気持ちとしては落ち着く。
「それじゃ、胸の音を聞くわね」
先生が聴診器を手に取ったので、俺は言われるまま姿勢を正した。
ところが、緊張のあまり背筋をぴんと伸ばし、両手を膝の上でぎゅっと握りしめてしまう。
「花川さん、もう少し力を抜いてちょうだい」
「す、すみません!」
「そんなに謝らなくてもいいのよ。はい、大きく息を吸って」
「すうううっ!」
「……もう少し自然でいいわよ」
勢いよく吸い込みすぎたうえ、途中で息が乱れて妙な声まで出てしまった。
先生は心配そうに俺の顔をのぞき込んだが、俺は恥ずかしさで顔を上げられなかった。
……ああもう、美人の先生を前にして何をやっているんだ俺は。
何とか診察を終えると、先生は聴診器を置き、手元のカルテへ目を落とした。
「さて、検査の記録を確認するわね」
これで終わりだ。
そう思ったのだが、先生は記録を見つめたまま小さく首を傾げた。
「……ん?なるほど……」
また「ん?」だ!
尿検査でも血圧測定でも聞いたぞ、その反応!
先生は何かを考え込むように記録をめくったあと、穏やかな表情で俺を見つめた。
「花川さん、ひとつ確認してもいいかしら?」
「は、はい!」
「今朝、お酒を飲んだ?」
「…………」
俺の頭が真っ白になった。
……え?なんで分かるんだ!?
血圧か、それとも尿検査で何か出たのか。
いや、もしかして俺の顔に『今朝ビール二本飲みました』って書いてあるのか!?
「……花川さん?」
「は、はいっ!」
「お酒は飲んだの?」
先生はもう一度尋ねた。
俺はごくりと唾を飲み込み、思わず答えてしまった。
「……い、いえ」
「……そうなの?」
「は、はい!飲んでません!」
……嘘だ。思いっきり嘘だ。
しかも、医者に嘘をついてどうするんだ。
先生はしばらく俺を見つめていたが、責める様子はなかった。
「少し血圧が高めね。それと、尿検査にも気になる反応があったの。最近、体調に変わったことはないかしら?」
「えっ?い、いえ!特には……」
「そう。何か心当たりがあれば、遠慮なく話してちょうだいね」
「……はい」
その優しい声を聞いていると、ますます罪悪感が湧いてくる。
先生は少し考えたあと、カルテを閉じた。
「はい、これで診察は終わりよ。今日は無理しちゃ駄目だからね」
「は、はい!」
助かった。
俺が胸をなで下ろしていると、先生はもう一度こちらを見た。
「それにしても、花川さん。少し珍しい体質なのかもしれないわね」
「…………っ!」
俺は思わず息を止めた。
「ど、どういう意味ですか?」
「まだ何とも言えないわ。ただ、少し気になることがあるのよ」
先生は穏やかに微笑んだ。
その笑顔は優しいのに、なぜか妙に落ち着かない。
「また何か困ったことがあったら、相談してちょうだい。どんなに変わった悩みでも、私は驚かないから」
「…………え?」
俺は思わず先生の顔を見つめた。
今の言い方、妙に引っかかるぞ。もしかして何か気づいているのだろうか。
いや、まさかな。
「そ、それじゃ、失礼します!」
「ええ。お大事にね、花川さん」
慌てて頭を下げ、保健室を出た瞬間、大きなため息が漏れた。
昨日の体育より疲れたかもしれない。
「花川!遅かったじゃん!」
廊下では七原が壁にもたれて待っていた。
「あ、ごめん。ちょっと先生にいろいろ聞かれちゃって」
「ふうん。どっか悪かったの?」
「いや、そういうわけじゃないと思うけど……」
「ならいいじゃん。ほら、教室戻ろう」
七原はそう言って歩き出した。
何とか健康診断を終え、ほっと胸をなで下ろした。しかし、先ほどの女医さんの言葉だけは、どうしても頭から離れなかった。
『どんなに変わった悩みでも、私は驚かないから』
ただ患者を安心させるための言葉だったのかもしれない。それでも、あの先生の笑顔には何か不思議なものを感じた。




