第22話 金髪不良少女は、注射が怖い
翌朝。
「……うう、頭が重い」
目覚まし時計の音に起こされた俺は、ベッドの中で小さくうめいた。
昨日は散々な一日だった。
初登校に始まり、体育の千メートル走、麗奈との買い物。そして最後には、元同僚の竹内にとんでもない誤解をされた挙げ句、やけ酒を飲んで吐いてしまった。
思い出すだけで頭が痛くなってくる。
いや、今の頭痛は普通に二日酔いか。
「……まあ、いつものことだな」
幸い、昨日ほど気分が悪いわけではない。俺はベッドから起き上がると、洗面所で顔を洗い、キッチンへ向かった。
今日も学校がある。
昨日は何もかもが初めてだったが、二日目ともなれば少しは余裕ができるはずだ。
「さて、朝飯でも作るか」
冷蔵庫から卵とサラダ用の野菜を取り出し、フライパンを火にかける。
卵を割り入れると、ジュウッという心地よい音が響いた。隣のトースターでは食パンを焼き、皿にサラダを盛りつける。
「おお、なかなかいいじゃないか」
食パンに目玉焼き、それにサラダ。我ながら、ずいぶん健康的な朝食である。
そして、最後に冷蔵庫から取り出すのは、よく冷えたモーニング缶ビール二本。
「……うん、完璧だな」
いや、何が完璧なのか。
自分で自分に突っ込みながら、俺は食卓についた。
目玉焼きに醤油をかけ、トーストをかじる。気分だけは優雅な朝食だ。ただし、飲み物がビールという点を除けば、だが。
昨日の失敗を考えれば控えるべきなのだろうが、今の俺には学校へ行くための事情がある。
朝食を終える頃には、鏡に映る姿もすっかり見慣れた花川麻由になっていた。
「さて、着替えるか」
クローゼットから制服を取り出し、まずは昨日買ったばかりの下着を身につける。
今度はサイズも合っているし、着け方も何となく分かってきた。昨日までのように戸惑うこともなく、すんなり準備ができた。
「よし、下着はオーケーっと」
ブラウスに袖を通し、スカートをはいて、リボンを整える。
鏡の前に立つと、そこには昨日と同じ白玲学園の女子生徒がいた。
「うん。今日もかわいいな、俺」
思わずそんなことを口にしてしまい、自分で苦笑する。
しかし、実際かわいいのだから仕方がない。
鞄を肩にかけ、玄関でローファーを履く。
「それじゃ、今日も行ってきまーす!」
誰もいない部屋に元気よく声をかけ、俺は家を出た。
昨日のような大騒ぎにならないことを祈りながら。
☆☆
白玲学園の校門をくぐると、朝の校舎にはすでに多くの生徒たちが集まっていた。
友達同士で笑い合う女子生徒。眠そうな顔で歩く男子生徒。部活動の朝練を終えたらしい運動部員たち。
そんな光景を眺めていると、不思議と懐かしい気持ちになってくる。
「おはよう、花川さん!」
「あ、おはよう!」
昨日、教室で話しかけてくれた女子生徒が、笑顔で手を振ってきた。
すると、その隣にいた別の女子生徒まで声をかけてくれた。
「花川さん、昨日は大丈夫だった?体育のあと、具合悪そうだったけど」
「うん!もうすっかり元気だよ!」
「よかった!無理しないでね」
二人は笑顔で教室へ向かっていった。
俺はその背中を見送りながら、思わず頬を緩めた。
いいなあ、こういうの。
朝、学校へ来れば誰かが挨拶してくれる。昨日知り合ったばかりなのに、もうクラスの一員として扱ってもらえている。
会社にいた頃も挨拶くらいはしていたが、あの頃とは何となく雰囲気が違う。
廊下を歩いていると、すれ違った男子生徒がこちらをちらりと見た。
「……あの子、昨日の転校生じゃね?」
「めっちゃかわいいよな」
おいおい、聞こえてるぞ。
もっとも、悪い気はしない。むしろ、少しうれしい。
俺は何も聞こえなかったふりをして、少しだけ背筋を伸ばした。
ふふん。見る目があるじゃないか、少年たち。
朝の騒がしい廊下を歩き、友達と挨拶を交わし、男子からちらちらと視線を向けられる。
これが高校生活というものなのだろう。
朝から少し酒が入っているせいか、気分もほんのり軽い。
今日はきっと、昨日より落ち着いた一日になる。
そう思っていた。
……このときまでは。
「麻由さん!おはようございますわ!」
教室へ入ると、真っ先に麗奈が声をかけてきた。
「おはよう、麗奈ちゃん」
「昨日はよく眠れましたの?」
「う、うん。まあ、それなりに……」
実際には飲みすぎて散々な夜だったが、そんなことを麗奈に話せるはずがない。
「わたくし、昨日のお買い物がとても楽しくて、寝る前まで思い出しておりましたわ!」
「私も楽しかったよ。また一緒に行こうね」
「まあ!ぜひお願いいたしますわ!」
麗奈はうれしそうに微笑んだ。
こうして話していると、本当に普通の女子高生になったような気がしてくる。
俺がそんなことを考えているうちに、始業のチャイムが鳴った。
ほどなくして、担任の永井先生が教室へ入ってくる。
「はーい、みんなおはよう!」
「おはようございまーす!」
昨日は二日酔いで辛そうだった永井先生だが、今日はずいぶん元気そうだ。
「先生、今日は元気ですねー!」
前の席の男子がからかうように声をかけた。
「もう!昨日のことは忘れてちょうだい!」
教室に笑い声が広がる。
永井先生は少し頬を膨らませたあと、出席簿を開いた。
「それじゃ、出席を取る前に連絡事項があるんだけど……あっ、そうそう!今日、健康診断の予備日だからね!」
「…………え?」
俺は思わず顔を上げた。
健康診断?
今、健康診断って言ったか?
「先日受けられなかった人は、今日の午前中に受けてもらいます。対象の人はホームルームが終わったら、教室前の廊下に集合してね」
永井先生はそこで出席簿に目を落とすと、俺のほうを向いた。
「ちなみに、このクラスで対象なのは花川さんだけね」
「わ、私ですか?」
「そうよ。昨日からの転入だから、まだ受けていないでしょう?」
「は、はい……」
「昨日事前に伝えるつもりだったけど、すっかり忘れてたわ!ごめんなさい!」
永井先生は申し訳なさそうに両手を合わせた。
「昨日ちょっと調子が悪くて、すっかり抜けちゃってたみたい!」
「先生、昨日二日酔いだったもんなー!」
「ちょっと!それはもう言わない約束でしょ!」
教室が笑いに包まれた。
俺も普段なら笑っていたところだろう。しかし、今はそれどころではない。
昨日言ってくれれば、せめて心構えくらいはできたのに。
よりによって今日かよ……。
健康診断といえば、身長や体重を測ったり、健康状態を確認したりする、あの健康診断である。
……まずい。
非常にまずい。
俺、今朝も飲んできたんですけど。
「それじゃ花川さん、ホームルームが終わったら廊下で待っていてね。ほかのクラスの子たちと一緒に案内してもらえるから」
「……分かりました」
俺は力なく返事をした。
健康診断そのものも不安だが、何より問題なのは、今朝飲んできたビールである。
昨日の体育でも失敗したばかりだというのに、またしても予想外の予定が入ってしまった。
血圧くらいならまだしも、医師に何か聞かれたらどう答えればいいのだろう。
頼むから、何事もなく終わってくれ。
ホームルームが終わると、麗奈が心配そうに顔をのぞき込んできた。
「麻由さん、どうかなさいましたの?少し顔色が優れませんわ」
「えっ?そ、そうかな?」
「健康診断がお嫌いですの?」
「嫌いというか……ちょっと緊張しちゃって」
「まあ!そんなに心配なさらなくても大丈夫ですわ。先生方もお優しいですし、すぐに終わりますもの」
麗奈はにっこり笑った。
そう言ってもらえるのはありがたいが、俺の心配は普通の健康診断とは少々違う。
「ありがとう、麗奈ちゃん。頑張ってみるよ」
「ええ!応援しておりますわ!」
麗奈に見送られ、俺は鞄を置いたまま教室を出た。
廊下にはすでに、ほかのクラスから来たらしい生徒が何人か集まっていた。
そして、その中に見覚えのある金髪があった。
「あっ、花川じゃん!」
七原愛だった。
昨日、校舎裏で知り合ったばかりの、隣のクラスの女子生徒である。
七原は俺に気づくと、気軽に手を振ってきた。
「おはよ。昨日ぶりだね」
「おはよう。七原さんも健康診断?」
「うん。あたしも今日受けるんだ」
「そうなんだ。先日の健康診断の日は休んでたの?」
「いや、学校には来てたんだけどさ。健康診断って面倒じゃん?だからサボった」
「…………え?」
俺は思わず聞き返した。
「サボったって、健康診断を?」
「そうそう」
七原は悪びれる様子もなくうなずいた。
「ほら、なんかサボるのって、ちょっとカッコいいかなって思って」
「いや、健康診断のサボりはダメでしょ!」
思わず素の声が出てしまった。
授業をサボるのもよくないが、健康診断は自分の体の状態を確認するためのものだ。それをカッコつけるためだけに休むとは、いったい何を考えているのか。
「だよねえ。あたしもあとから思った」
「あとからなんだ……」
「しかも先生にめっちゃ怒られたし。『健康診断はちゃんと受けなさい!』って」
「そりゃ怒られるよ」
「だから今日は逃げずに来たってわけ」
七原は得意げに胸を張った。
いや、そんなに自慢することではないと思う。
だが、昨日の七原もそうだったが、見た目の派手さに反して妙に素直なところがある。
サボることがカッコいいと思ったからサボり、怒られたから今日はちゃんと来た。
行動はともかく、考えていることが実に分かりやすい。
「それにしても、花川も健康診断なんだね」
「うん。昨日から来たばかりだから」
「ああ、そっか。じゃあ一緒だね」
「そうだね……」
俺は曖昧に笑った。
昨日この子には朝から酒を飲んでいたことを知られている。できれば、その話は蒸し返してほしくない。
そんな俺の願いを知ってか知らずか、七原は少し声を落として尋ねてきた。
「ねえ、花川。今日もビール飲んできたの?」
七原が目をキラキラさせながら、興味津々といった様子で尋ねてきた。
「の、飲んでないよ!」
俺は慌てて首を横に振った。
……飲んだけど。
「えー……」
七原は露骨に残念そうな顔をした。
いや、何で残念そうなんだよ。
むしろ飲んでないほうが普通だろ!
俺は心の中で突っ込みながら、これ以上追及されないことを祈った。
しばらくすると、廊下の向こうから養護教諭がやってきた。
「はい、健康診断を受ける人は、こちらに集まってくださいね。これから保健室へ案内します」
集まっていた生徒たちが、先生の周りに寄っていく。
「それから、最初は採血をするので、左腕をすぐに出せるように準備しておいてください」
「…………えっ?」
隣から、か細い声が聞こえた。
見ると、さっきまで余裕たっぷりだった七原が、ぴたりと動きを止めていた。
「……さ、採血?」
「うん。そう言ってたね」
「……注射、するってこと?」
「まあ、そうなるんじゃないかな」
七原の顔から、みるみる血の気が引いていった。
さっきまで得意げだった表情はどこへやら。大きな瞳が潤み、唇が小さく震えている。
「な、なんだ。採血くらい、全然平気だし……」
「七原さん?」
「べ、別に怖くないし!注射なんて、ちょっとチクッとするだけじゃん!」
そう言いながら、七原は俺の制服の袖をぎゅっとつかんできた。
……いや、めちゃくちゃ怖がってるじゃないか。
「七原さん、もしかして注射苦手?」
「に、苦手じゃないって!全然余裕だし!」
強がる七原だったが、その目には今にもこぼれそうな涙が浮かんでいた。
そして、先生が「それじゃ行きましょう」と声をかけると、びくっと肩を震わせる。
金髪に派手な制服の着こなし。昨日は少し怖そうな印象さえあった七原が、今は俺の袖を握りしめたまま離そうとしない。
その姿は、まるで知らない場所へ連れてこられた小動物のようだった。
「……花川」
「ん?」
「……先に行かないでね?」
涙目でそんなことを言われ、俺は思わず苦笑した。
……おいおい。
昨日までの不良っぽい雰囲気は、いったいどこへ行ったんだよ。
どうやら俺は、アルコールが入った状態で健康診断を受けるだけでも大問題だというのに、その前から、とんでもなく臆病な小動物の面倒まで見ることになってしまったらしい。




