第20話 違うんだ!その女子高生は俺なんだ!
白玲学園での初登校を終え、俺がようやく自宅へ帰り着いたのは、夕方もだいぶ遅くなってからだった。
「ただいまー……っと」
誰もいない部屋に声をかけ、玄関でローファーを脱ぐ。鞄と買い物袋をリビングのテーブルに置くと、俺はそのままソファへ倒れ込んだ。
「はあああ……疲れたぁ……」
今日は本当にいろいろなことがあった。
転校生としてクラスメイトたちに囲まれ、久しぶりの授業を受け、体育では千メートルも走らされた。しかも、校舎裏で気分が悪くなったところを七原愛という金髪の女子生徒に見つかり、朝からビールを飲んできたことまで知られてしまった。
あれについては、できれば今すぐ記憶から消してしまいたい。
とはいえ、悪いことばかりではなかった。クラスメイトたちは親切だったし、麗奈とは放課後に買い物まで楽しめた。おかげで、今朝まで悩みの種だった女性用の下着も一通り揃えることができた。
「……なんだかんだ、充実してたな」
天井を見上げながら、自然と頬が緩む。
少し前までの俺は、毎日会社へ通い、帰宅すれば酒を飲んで寝るだけの生活を送っていた。それが今では、明日の学校が少し楽しみになっている。
人生、何が起こるか分からないものだ。
「さて、夕飯どうするかな」
俺は重い腰を上げ、冷蔵庫へ向かった。
中には昨日買っておいた惣菜がいくつか残っている。そして、その隣にはよく冷えた缶ビールが並んでいた。
「…………」
俺は少し考えたあと、一本取り出した。
今日くらいは、自分へのご褒美があってもいいだろう。なにしろ高校生活初日を、多少の問題こそあったものの、無事に乗り切ったのだから。
「よし、初登校お疲れさん!」
プシュッと缶を開け、そのまま口をつける。
「っかあああ!うまい!」
思わずいつもの調子で声が出たところで、ふと我に返った。
現在の俺は、白玲学園の制服を着た花川麻由である。
そんな女子高生が、帰宅するなり冷蔵庫からビールを取り出し、豪快に飲んでいるのだ。しかも、飲み終わったあとの感想が完全に仕事帰りのおっさんである。
「……絵面としては最悪だな」
もし麗奈がこの光景を見たら、きっと目を丸くして怒るだろう。もっとも、ここは俺の家だ。誰かに見られる心配もないのだから、今くらいは気を抜いてもいいはずである。
ソファへ戻ったところで、壁に掛かった時計が目に入った。
「あれ、もうこんな時間か」
朝に飲んだビールのことを考えると、そろそろ正由の姿に戻ってもおかしくない頃だった。
ただ、放課後には念のためアルコール入りのチョコレートも食べている。さらに今、ビールまで追加してしまった。
「……ああ、この姿でいる時間がまた延びたな、これ」
朝からずっと麻由の姿で過ごし、帰宅後もそのまま。さらに酒を飲んだことで、元に戻る時間はますます分からなくなってしまった。
この調子では、ほとんど丸一日を麻由として過ごすことになりそうだ。
「まあ、今日はもう出かけないし、別にいいか」
そう結論づけると、俺は残りのビールを飲み干した。
しばらくテレビを眺めていたが、制服がどうにも窮屈に感じられたので、部屋着に着替えることにした。
その途中、テーブルに置いた買い物袋が目に入る。中には、今日麗奈と一緒に選んだ下着が入っている。
店でも試着はしたが、家でも改めて着け心地を確かめておきたいと思い、俺は制服を脱ぎ、購入した水色のブラジャーとショーツを身につけてみた。
鏡の前に立ち、軽く肩を動かしてみる。
「おお、なるほど。やっぱりちゃんと合ってるな」
店員さんにサイズを確認してもらっただけあって、今までの間に合わせとは違う。これなら制服の下でも落ち着いて過ごせそうだ。
しかし、鏡の中の自分を眺めていると、なんとも言えない気分になる。
先週まで普通に男物の下着を買っていた人間が、今では女性用の下着を選び、その着け心地に納得しているのだ。
「……まあ、似合ってるならいいよな……」
酔いが回り始めていたせいか、妙にあっさり納得してしまった。
本来ならそのまま部屋着を着るべきだったのだろうが、今日は誰も来る予定がない。あとで風呂に入るつもりだったこともあり、俺は下着姿のままリビングへ戻ってしまった。
そして、冷蔵庫からもう一本ビールを取り出す。
「……ん?」
ソファへ腰を下ろしたところで、ようやく自分の格好に気づいた。
「まぁ……誰も見てないし……」
そんな適当な考えに落ち着いてしまうあたり、すでに判断力が怪しくなっていたのだと思う。
それからの俺は、完全に気が緩んでいた。
テレビで芸人が何か言うたびに大笑いし、つまみがなくなれば冷蔵庫へ取りに行く。気づけば空き缶が増え、頭の中もすっかりふわふわしていた。
「いやあ……高校って楽しいなあ……」
ソファに深く腰かけ、ぼんやりと天井を見上げる。
「……いいなあ、こういうの」
俺は小さく笑い、缶を傾けた。
そのときだった。
ピンポーン。
「……ん?」
突然、玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に誰だろう。宅配便でも届いたのか、それとも何かの勧誘だろうか。
考えているうちに、もう一度チャイムが鳴る。
「はーい、今行きまーす!」
俺は勢いよく立ち上がった。
少し足元がふらついたが、ソファの背もたれに手をついて体勢を整える。どうやら思っていた以上に酔っているらしい。
それでも、訪ねてきた相手を待たせるのは悪いと思い、俺はそのまま玄関へ向かった。
「はーい。どちらさまですかー?」
何の警戒もなく扉を開ける。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
年齢は俺と同じくらい。見覚えのある顔をしている。
いや、見覚えがあるどころではない。つい最近まで、毎日のように顔を合わせていた相手だった。
竹内弘人。
倒産した会社で一緒に働いていた同僚で、仕事帰りに何度か飲みに行ったこともある。
「…………あれ?」
俺が間の抜けた声を出すと、竹内も目を丸くした。
そして、俺の顔を見たあと、ゆっくりと視線を下げる。
その先にあるのは、買ったばかりの下着を身につけた麻由の姿。
しかも、俺の右手には飲みかけの缶ビールが握られていた。
「…………」
「…………」
玄関に、なんとも言えない沈黙が流れた。
竹内はもう一度俺の顔を見たあと、少しだけ玄関の奥へ視線を向けた。開いた扉の向こうには、空き缶が並んだテーブルと、つけっぱなしのテレビが見えている。
それから、何かを察したように表情を引きつらせた。
俺はといえば、酔った頭で必死に考えていた。
あれ、竹内じゃん。
なんでこいつがここにいるんだ?
会社が倒産したから、暇を持て余しているのか?
そんなことを考えているうちに、竹内が静かに動いた。
ぺこっ。
なぜか俺に向かって、丁寧に会釈する。
そして何も言わないまま、玄関の扉へ手をかけた。
そーっ……。
まるで眠っている赤ん坊を起こさないようにするかのような慎重さで、扉が閉められていく。
最後に小さくカチャリと音がして、玄関は再び静かになった。
「…………」
俺はその場に立ち尽くした。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
いや、理解したくなかったというほうが正しいかもしれない。
今、俺の家に竹内が来た。
そして、俺の姿を見た。
正確には、花川正由の家にいる、見知らぬ女子高生の姿を見たのだ。
しかも、下着姿で缶ビールを持っているところを。
「…………あ」
俺はゆっくりと自分の格好を見下ろした。
水色のブラジャー。
同じく今日買ったショーツ。
そして、手にはビール。
ここまで確認したところで、ようやく事態の深刻さが理解できた。
「ああああああっ!?」
今さら叫んでも遅かった。
俺は慌てて玄関の鍵を閉め、リビングへ駆け戻ると、脱ぎっぱなしになっていた部屋着を引っ張り出して身につけた。
だが、当然ながら、服を着たところで先ほどの光景がなかったことになるわけではない。
「やばい……これは本当にやばいぞ……!」
俺はソファに座り、頭を抱えた。
竹内は俺のことをよく知っている。花川正由という男がこの家で一人暮らしをしていることも、酒が好きなことも知っている。
そんな家を訪ねたら、見知らぬ少女が下着姿で酒を飲んでいた。
しかも、その少女は我が物顔で玄関を開けたのである。
「……いや、絶対に誤解されるだろ!」
どう考えても、ろくな想像をされない。
電話して事情を説明しようかとも考えたが、今の声で話したところで、ますます話がややこしくなるだけだ。
そもそも、何と言えばいいのだろう。
さっき玄関にいた女の子は俺です、とでも言うのか。
そんな説明をしたところで、信じてもらえるはずがない。
「……終わった」
俺は深いため息をついた。
学校では、正体を知られないように一日中気を張っていた。麗奈にもクラスメイトにも、どうにか怪しまれずに済んだというのに、家へ帰って気を抜いた途端にこれである。
しかも、よりによって昔の俺を知っている竹内に見られるとは。
そのとき、テーブルに置いていたスマホが短く震えた。
ブブッ。
「…………」
嫌な予感しかしなかった。
恐る恐る画面を見ると、そこには竹内貫太郎の名前が表示されていた。
どうやら、さっきの竹内からメッセージが届いたらしい。
俺はしばらく画面を見つめたあと、覚悟を決めて通知を開いた。
『おまえ、未成年になにやらせてんの?』
「…………」
予想していたとはいえ、実際に文字で突きつけられると破壊力が違った。
竹内の中では、どうやら俺が見知らぬ少女に酒を飲ませ、あんな格好をさせていたことになっているらしい。
「違うんだってえええええっ!!」
俺はスマホを握りしめたまま、誰もいないリビングで叫んだ。
違う。断じて違う。
誰かに何かをやらせていたわけではない。あそこにいたのは俺自身であり、酒も自分の意思で飲んでいたのだ。
ただし、それを証明する方法がない。
初登校を無事に終え、麗奈と買い物を楽しみ、明日からの学校生活に胸を弾ませていたはずなのに、最後の最後でとんでもない問題を抱え込んでしまった。




