第19話 上は買った。でも下を忘れていました
最後の授業が終わり、放課後のチャイムが鳴った瞬間、俺は机に突っ伏した。
「……疲れたぁ」
高校生活初日。朝から転校生として注目を浴び、十数年ぶりに数学の授業を受け、体育では千メートル走に挑戦した。
そして、見事に吐いた。
しかも、その直後に口を滑らせ、朝からビールを二本飲んできたことまで七原愛という少女に知られてしまった。幸い秘密にしてくれるとは言っていたが、思い返すだけで冷や汗が出る。
あのあと体育の先生に事情を話し、残りの時間は見学させてもらった。午後の授業は普通に受けられたものの、さすがに疲労は隠せない。
「麻由さん!」
聞き慣れた声に顔を上げると、麗奈が嬉しそうに俺の席へやってきた。
「お疲れ様でしたわ!お身体の具合はいかがですの?」
「もう大丈夫だよ。ちょっと疲れたけど……」
「本当ですの?ご無理をなさってはいけませんわよ?」
「大丈夫だよ。今日はもう走らないから」
「それなら安心ですわ!」
麗奈はほっとしたように微笑むと、今度はぱっと表情を輝かせた。
「では、お約束のお買い物に参りましょう!」
「うん。お願いね」
「はい!麻由さんにぴったりの下着を、一緒に選びましょうね!」
「麗奈ちゃん、声!」
慌てて周囲を見回すと、近くにいた女子がこちらを向いて笑っていた。
「花川さん、白川さんと買い物? いいなあ」
「ふふっ。今日はわたくしがご案内いたしますの!」
「楽しそう。二人ともいってらっしゃい!」
「いってまいりますわ!」
麗奈は優雅に手を振っている。
俺はというと、初日から下着を買いに行くことがクラスメイトに知られ、少々複雑な気分だった。
鞄を持ち上げたところで、教室の時計が目に入った。
……あ、まずい。
今朝、麻由の姿になるためにビールを二本飲んでいる。これまでの検証では九時間以上変身が続いたが、買い物をして帰宅するまで持つ保証はない。
今日は体育で体調まで崩している。余裕があるうちに、念のため備えておいたほうがよさそうだ。
俺は鞄の内ポケットから、小さな包みを取り出した。
緊急用のアルコール入りチョコレートである。
「麻由さん、参りましょう?」
「あ、うん。ちょっと待って」
俺は麗奈にくるりと背中を向け、包みを開いて一粒をさっと口に放り込んだ。
よし。完璧。
「……麻由さん?」
振り返った瞬間、麗奈と目が合った。
「な、何?」
「何か召し上がりました?」
「えっ。なんで?」
「甘い香りがいたしますわ。チョコレートですの?」
早い!
隠密行動、わずか三秒で失敗である。
「う、うん。ちょっと小腹がすいちゃって」
「まあ、そうでしたのね」
麗奈は納得したように微笑んだ。
「でも、麻由さんったら。急に後ろを向かれるので、何かあったのかと思いましたわ」
「ごめんごめん。別に大したことじゃないから」
「ふふっ。それならよかったですわ」
どうやら怪しまれてはいないらしい。
それにしても、数秒で気づかれるとは思わなかった。麗奈の鼻は犬並みに利くのだろうか。
いや、そんなことより問題は、このチョコが例のアルコール入りだということだ。
土曜日に白川家で間違って出されたものと同じだと気づかれたら、また心配をかけてしまうかもしれない。
「じゃあ、行こうか」
「はい!今日はわたくしにお任せくださいませ!」
麗奈は嬉しそうに俺の隣へ並んだ。
俺は何食わぬ顔で歩き出しながら、内心ほっと胸をなで下ろした。
……これからは、食べる場所にも気をつけないとな。
校門を出ると、いつもの白川家の車が待っていた。運転手さんに挨拶して乗り込み、駅前のショッピングモールへ向かう。
麗奈は窓の外を眺めながら、楽しそうに微笑んでいる。
今朝、宗一郎さんから聞いた話を思い出す。麗奈は同年代の子から遠慮されることが多く、友達と気軽に遊ぶ機会が少なかったらしい。
だから、こんな普通の買い物でも楽しみなのだろう。
モールに到着すると、麗奈の案内で二階の下着専門店へ向かった。
白を基調とした明るい店内には、色とりどりの商品が並んでいる。
「おお……」
女性用の服を買うことにはだいぶ慣れてきたつもりだったが、こういう店に入るのは初めてだ。
「麻由さん、どのようなものがお好みですの?」
「普通のでいいかな。体育でも困らないやつ」
「では、まずはサイズを確認いたしましょう!」
麗奈が店員さんに声をかけると、すぐに丁寧な対応をしてくれた。
「いらっしゃいませ。サイズはお分かりですか?」
「……分かりません」
「それでしたら、採寸からいたしましょうか」
「は、はい」
案内されながら、俺は少し緊張していた。
考えてみれば、三十五年間生きてきて胸のサイズを測ってもらう機会なんて一度もなかった。
そりゃそうだ。
先週まで男だったんだから。
採寸は思ったよりあっさり終わり、店員さんが手際よくサイズを教えてくれた。
「こちらのサイズからお試しいただくとよろしいかと思います」
「ありがとうございます」
店員さんに告げられたのは、Cカップというサイズだった。
……へえ、Cカップなのか。
三十五年間、縁のなかった単語を自分のこととして聞かされる日が来るとは思わなかった。
自分の身体なのに、初めてプロフィールを教えてもらったような気分である。
試着を終えて戻ると、麗奈が待ちかねたように立ち上がった。
「麻由さん!いかがでしたの?」
「うん。いい感じ。これなら体育でも安心できそう」
「まあ!よかったですわ!」
麗奈は自分のことのように喜んでくれた。
「それでは、お色を選びましょう!」
「色?別に何でもいいけど」
「まあ!何でもよろしいなんて、もったいないですわ!」
麗奈は真剣な顔で商品を見比べ始めた。
「こちらの水色も素敵ですし、白も清楚で……。ああ、こちらの淡いピンクも麻由さんにお似合いですわね!」
「そんなに悩まなくてもいいよ?」
「ですが、せっかくですもの!」
麗奈は水色と白を手に取り、俺のほうへ向き直った。
「麻由さんは、どちらがお好き?」
「じゃあ、水色かな」
「まあ!わたくしもそう思っておりましたの!」
「じゃあ決まりだね」
「ですが、白も捨てがたく……」
「麗奈ちゃん、私に聞いた意味ある?」
思わずツッコむと、麗奈がきょとんとした。
「だって、どちらもお似合いになりそうなんですもの!」
「数学の問題より真剣に悩んでない?」
「数学には正解がありますけれど、こちらには正解がありませんわ!」
「名言っぽく言わないで!」
俺が吹き出すと、麗奈もつられて笑った。
結局、普段用のシンプルなものとスポーツ用のものを何枚か選び、無事に会計を済ませた。
「ふう。これで一安心だね」
「はい!次の体育では、もう少し楽に動けると思いますわ」
「持久走そのものが楽になるかは別だけどね」
「ふふっ。そこは少しずつ頑張りましょう!」
店を出た俺は、紙袋を持ち直して大きく伸びをした。
これで今日のノルマは完了。
……と思ったのだが。
「あっ、そうだ。麗奈ちゃん」
「はい?」
「文房具も見ていい?今日授業を受けてみたら、足りないものが結構あってさ」
「もちろんですわ!三階に大きな文房具店がございますの!」
「じゃあ、そこ寄ってから帰ろうか」
「はい!」
麗奈は嬉しそうに頷き、俺たちは三階へ向かう上りエスカレーターへ歩いていった。
俺が先に乗り、麗奈がそのあとに続こうとした、そのときだった。
「あっ……!」
背後から小さな声が聞こえた。
「ん?」
振り返ると、麗奈が足元を見つめていた。
「どうしたの?」
「す、すみません!スマートフォンを落としてしまいましたわ!」
見ると、麗奈のスマホが床に落ちていた。
「あらら。大丈夫?」
「はい!すぐ拾いますので、少々お待ちくださいませ!」
麗奈がスマホを拾おうとしゃがみ込む。
だが、俺はすでにエスカレーターに乗っていた。
当然ながら、エスカレーターは止まってくれない。
「ごめん麗奈ちゃん、先に上で待ってるね!」
「はい!すぐ参りますわ!」
麗奈が床に落ちたスマホを拾い上げ、画面を確認している間にもエスカレーターは上っていく。
気づけば、俺と麗奈の間にはかなりの距離ができていた。
「麗奈ちゃん、スマホ大丈夫ー?」
俺が振り返って声をかけると、麗奈がこちらを見上げた。
「はい!大丈夫ですわー!」
麗奈はスマホを鞄へしまい、少し遅れてエスカレーターに乗った。
そして、こちらへ手を振ろうとしたところで――
「……まあ?」
麗奈の動きが止まった。
「ん?どうしたの?」
「……あら?」
なぜか首を傾げている。
俺は不思議に思いながらも、そのまま三階へ到着した。
しばらくして麗奈も上がってくる。
「お待たせいたしましたわ!」
「傷とか付いてない?」
「はい!傷もついておりませんでした」
「よかったね」
「ありがとうございます。……あの、麻由さん」
「ん?」
麗奈は少しだけ周囲を見回すと、俺の袖をそっと引いた。
「少し気になったことがございますの」
「気になったこと?」
「はい。あの……」
麗奈はなぜか頬をほんのり赤くし、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「麻由さん、スカートの中が丸見えでしたわ」
「…………え?」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「ま、丸見え?」
「はい……」
麗奈はこくりと頷いた。
「わたくし、ずいぶん下のほうから見上げる形になってしまいましたので……」
「ちょ、ちょっと待って!」
俺は思わずスカートの裾を押さえた。
いかんいかん。
ちょっと油断したらこれだから。
今までズボンばかり穿いていた俺にとって、スカートはまだまだ扱いが難しい。座るときだけでなく、階段やエスカレーターでも気をつけなければならないらしい。
……待てよ。
そこで、俺は重大な事実を思い出した。
上半身のことばかり考えていたけど、下はどうなってたっけ?
いや、考えるまでもない。
男物のボクサーパンツである。
正由のときから使っていたものだ。麻由になっても穿けなくはないので、特に気にせずそのまま使っていた。
だが、今の麗奈の話が本当なら。
……見られた。
完全に見られた。
俺が固まっていると、麗奈が申し訳なさそうに両手を合わせた。
「ご、ごめんなさいませ! 決して、わざと見たわけではありませんの!」
「いや、麗奈ちゃんは悪くないから!」
「ですが……あの……」
麗奈は何か言いかけ、少しだけ首を傾げた。
「麻由さんの下着、わたくしが普段見かけるものとは、ずいぶん形が違っておりましたわね」
「…………」
「もしかして、あれは特別な運動用のものですの?」
……違います。
普通の男物です。
麗奈は不思議そうに瞬きをした。
その顔があまりにも純粋で、逆にこちらがいたたまれなくなる。
俺はしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……麗奈ちゃん」
「はい?」
「下も買います……」
「……えっ?」
「上だけで満足してたけど、下もちゃんと買います……」
麗奈は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと表情を明るくした。
「まあ!そうでしたのね!」
そして、なぜか嬉しそうに俺の手を取る。
「では、もう一度二階へ参りましょう!」
「……はい」
「ふふっ。お任せくださいませ!今度は下の下着も、きちんと選びましょうね!」
満面の笑みを浮かべる麗奈。
俺はというと、ただただ恥ずかしかった。
まさか人生二度目の高校生活初日から、女の子の友達に男物のパンツを見られることになるとは。
……いや、そもそも俺が女の子になっている時点で、人生どうかしてるんだけど。
結局、念には念を入れて、このあと下の下着も何枚か購入した。
これで今度こそ、明日から安心して制服を着られるはずだ。
……たぶん。




