第17話 初めての体育で、盛大にやらかしました
次の授業が持久走だと聞いた瞬間、俺の頭から数学の余韻が吹き飛んだ。
今朝は麻由の姿になるためにビールを二本飲んできた。おかげで初登校の緊張も薄れ、数学の授業では懐かしい高校生活を楽しんでいたのだが、まさかその直後に体育が待っているとは思わなかった。
しかも、よりによって持久走である。
麻由の身体でまともに運動したことはないし、酒だってまだ抜けていない。これでは、まともに走れるかどうかも怪しい。
「花川さん、行かないの?」
隣の席の女子に声をかけられ、俺は顔を上げた。
「あ、ごめん。今行く」
「もしかして持久走苦手?さっきからすごい顔してるよ」
「そんなに顔に出てた?」
「うん。数学のときは楽しそうだったのに」
どうやら浮かれていたところもしっかり見られていたらしい。俺が苦笑いすると、その子は「私も走るの嫌いだから分かるよ」と笑い、体育着を持って教室を出ていった。
俺も鞄から体育着の袋を取り出す。先週の金曜日、制服や教科書と一緒に届けられたものだ。受け取ったときは高校生活への期待でいっぱいだったが、まさか初日からこんなに重たく感じるとは思わなかった。
「麻由さん!」
教室を出ようとしたところで、麗奈がこちらへやってきた。
「次は体育ですわね!ご一緒してもよろしいですか?」
「もちろん。麗奈ちゃんって、体育は得意なの?」
「特別得意というほどではありませんけれど、身体を動かすのは好きですわ。持久走も自分のペースで走れますもの!」
「へえ、健康的だね」
「まあ、ありがとうございます!麻由さんも一緒に頑張りましょうね!」
「……うん」
その笑顔が、今の俺には妙にまぶしかった。
麗奈と並んで廊下を歩き、女子更衣室の前まで来たところで、俺はふと足を止めた。
そういえば、ここで着替えるのか。
女子更衣室に入るなんて考えただけで慌てるところだが、不思議なことに、今はそれほど抵抗がなかった。
今の姿なら、ここに入るのが当たり前。そんな感覚が、いつの間にか自然と身についているらしい。
……慣れって怖いな。
「麻由さん?」
先に入った麗奈が振り返る。
「あ、なんでもない。ちょっと考え事してただけ」
「ふふっ。初めての体育ですものね。緊張なさるのも無理はありませんわ」
「まあ、そんなところかな」
俺は麗奈の後について更衣室へ入った。
中ではすでに何人もの女子が着替え始めており、あちこちから楽しそうな話し声が聞こえてくる。俺も空いている場所に荷物を置き、周囲に合わせて着替えの準備を始めた。
自分でも驚くほど自然に動けている。ついこの間まで、女の子の服を買うだけでも緊張していたというのに、今では制服を脱いで体育着に着替えることに、ほとんど違和感がない。
……もしかして、身体だけじゃなくて、心まで少しずつ女になってきてるのか?
仮にそうだとして、それは今後送る高校生活にとって、本当に良いことなのか……?
シャツのボタンへ手をかけたところで、ふと動きが止まった。
「…………あ」
下着だ。
そういえば、まだ買っていなかった。
麻由の姿で生活するなら、ちゃんとした下着も必要だ。そう思ったのは何日も前のことである。制服を試着したときにも気になっていたし、今朝だって買い忘れていることを思い出したばかりだった。
必要だとは分かっている。分かっているのだが、これまで買う習慣がなかったものだから、どうにも後回しになってしまう。
しかし、体育となれば話は別だ。今までは多少の違和感を我慢していれば済んだが、持久走でそれが通用するとは思えない。
「麻由さん、どうかなさいましたの?」
「ひゃっ!」
背後から声をかけられ、思わず肩が跳ねた。
振り返ると、すでに体育着に着替え終えた麗奈が、心配そうにこちらを見ていた。
「先ほどから難しいお顔をなさっていますけれど……何かお困りですの?」
「あ、いや。ちょっと忘れ物を思い出して」
「まあ!何をお忘れになりましたの?」
「えっと……その……」
言いかけて、口ごもる。初登校の日から下着の相談をするのは、さすがに少し恥ずかしかった。
俺が返事に困っていると、麗奈は着替えの途中で手を止めている俺を見て、何かに気づいたように声を落とした。
「……麻由さん、もしかして下着をお持ちでないのですか?」
「えっ、なんで分かったの?」
「先ほどから着替えるのをためらっていらっしゃいましたから……」
なるほど。そこまで分かりやすかったのか。
「……実は、まだ買ってなくて……普段はそもそも、つけていないというか……」
「まあ!」
麗奈が驚いた声を上げたので、俺は慌てて人差し指を口元に当てた。
「しっ!麗奈ちゃん、声!」
「あっ、申し訳ございません!」
麗奈は慌てて声を落とし、俺のそばへ寄ってきた。
「ですが、麻由さん。体育のときは、せめて身体に合ったものを身につけたほうがよろしいですわ」
「うん。それは分かってるんだけど、つい後回しにしちゃって」
「そうでしたのね……。でしたら、今日の放課後、一緒に買いに参りませんこと?」
「えっ?」
「わたくし、よいお店を存じておりますの!きっと麻由さんに合うものが見つかりますわ!」
麗奈と下着を買いに行く。想像しただけで、なんだか落ち着かない。
しかし、サイズも種類もよく分からない俺が一人で買いに行くより、詳しい人についてきてもらったほうが安心なのも事実だった。
「……迷惑じゃない?」
「まあ!どうして迷惑なのです?むしろ、麻由さんと一緒にお買い物ができるなんて、とっても楽しみですわ!」
その顔を見ていると、断る理由がなくなってしまう。
「……じゃあ、お願いしようかな」
「はい!お任せくださいませ!」
麗奈は満面の笑みを浮かべた。なんだか、ものすごく張り切っている。
俺も急いで着替えを済ませ、麗奈と一緒に更衣室を出た。
廊下を歩いていると、麗奈が俺の髪へ視線を向けた。
「麻由さん、そのままですと走りにくくありませんこと?」
「あ、そうか。髪か」
「よろしければ、わたくしが結びましょうか?」
「いいの?」
「もちろんですわ!」
麗奈は持っていたヘアゴムを取り出し、俺の髪を手際よくまとめてくれた。首元がすっきりして、軽く頭を動かすと、後ろで結んだ髪が小さく揺れる。
「はい、できましたわ!」
「ありがとう。すごく楽になった」
「ふふっ。とてもお似合いですわ!」
嬉しそうに笑う麗奈につられて、俺も笑った。
そんなことを話しているうちに、グラウンドへ到着した。
体育の先生が生徒たちを集め、出席を取り始める。俺も麗奈の隣へ並び、周囲に合わせて返事をした。
「よし、今日は持久走だ。まずは準備運動から始めるぞ!」
先生の指示で、生徒たちが一斉に身体を動かし始めた。
俺も見よう見まねで腕を回し、身体を伸ばしてみる。麻由の身体は見た目どおり若いらしく、関節も柔らかい。軽く屈伸するくらいなら、むしろ普段より楽な気さえした。
ただ、身体が動くからといって安心はできない。今朝飲んだビールは、まだ抜けていないのだ。
「今日は千メートル走だ。グラウンド五周、各自のペースで走れ。無理はするなよ!」
千メートル。
数字だけ聞けば大したことはなさそうだが、今の俺には十分すぎる距離だった。
「麻由さん、一緒に頑張りましょう!」
「う、うん……」
麗奈に笑顔を向けられ、俺もスタート位置へ並んだ。
笛の音とともに、生徒たちが走り始める。
最初の一周は、思ったより順調だった。麗奈と並んでゆっくり走りながら、これなら案外いけるかもしれないと思ったほどだ。
ところが二周目に入ると、早くも問題が出てきた。
胸元が落ち着かず、走るたびに気になってしまう。なるほど、麗奈が更衣室で言っていたのはこういうことか。
さらに三周目。
息が上がり、足が重くなってきた。
「麻由さん、大丈夫ですの?」
「う、うん……なんとか……」
「無理はなさらないでくださいませ!」
麗奈は心配そうだったが、俺はどうにか笑ってみせた。
正直、もう歩きたい。
けれど、今日は転校初日だ。さっきまでみんなに注目されていた手前、最初の体育で途中棄権するのは妙に悔しい。
……せめて、最後まで走ってやる。
四周目に入る頃には、麗奈についていく余裕もなくなっていた。
「麗奈ちゃん、先行って……」
「ですが……」
「大丈夫。自分のペースで走るから」
そう伝えると、麗奈は何度も振り返りながら前へ進んでいった。
残り一周。
たった二百メートルが、信じられないほど遠く感じる。呼吸は苦しく、胃のあたりまで妙にむかついてきた。
……あと少し。
今さらやめられるか。
ほとんど意地だけで足を動かし続け、どうにかゴールへたどり着いた。
順位は真ん中あたり。
速くも遅くもない、ごく普通の結果だった。
だが、俺にとってはそれどころではない。
「麻由さん!お疲れ様ですわ!」
先にゴールしていた麗奈が駆け寄ってくる。
「最後まで走りきりましたわね!」
「はあっ……はあっ……う、うん……」
返事をした途端、胃の奥から嫌な感覚がこみ上げてきた。
……まずい。
これは、まずいぞ。
「麻由さん?お顔の色が……」
「ごめん、麗奈ちゃん。ちょっと気分が悪くて……」
「まあ!すぐに先生をお呼びしてまいります!」
「う、うん……お願い……」
麗奈は心配そうに振り返りながら、体育の先生のもとへ走っていった。
その背中を見送ったところで、再び吐き気がこみ上げる。
……駄目だ。先生が来るまで待てそうにない。
俺は口元を押さえ、グラウンドの端へ向かった。
人目につかない場所を探して校舎の裏手へ回り込む。大きな木の向こうに植え込みがあり、グラウンドからは見えない場所になっていた。
ここなら、誰もいないだろう。
俺は木の陰へ駆け込み、幹に片手をついた。
「……うっ」
次の瞬間、とうとう我慢できなくなった。
「うぇっ……!おろろろろろ」
……やってしまった。
涙目になりながら呼吸を整え、俺は木の幹にもたれかかった。
「……はあ。やっぱり朝からビール二本飲んで、そのまま運動するのはきついな……」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
「……全部出た?」
「……え?」
すぐ近くから、聞き覚えのない声がした。
恐る恐る振り返ると、少し離れた植え込みの陰に、一人の女子生徒が座っていた。
明るい金髪に、少し着崩した制服。どうやら授業をサボって、こんなところで休んでいたらしい。
その場所からは、俺が駆け込んできた木の根元が丸見えだった。
その女子は俺を見上げながら、何とも言えない顔をしていた。
「いやー、豪快に吐いたねえ。見てるこっちまでびっくりしたよ」
「…………」
「それにしても、そんな可愛い顔して朝からビールとはねえ。なかなか度胸あることしてんじゃん」
待て。
ちょっと待て。
今、なんて言った?
俺が固まっていると、金髪の女子はにやりと笑った。
「いやー、あんた見た目によらず、なかなかぶっ飛んでるね」
「ぎゃあああああああっ!?」
静かな校舎裏に、俺の悲鳴が響き渡った。
……高校生活初日。
どうやら俺は、とんでもない相手に、とんでもないところを見られてしまったらしい。




