第16話 美少女転校生、次の授業で絶望する
高校生活、最初の授業は数学だった。
ホームルームを終えて一度教室を出ていった永井先生が、再び教卓の前に立っている。先ほどまで月曜日の憂鬱さを語り、生徒たちにお酒のことでツッコまれていた先生だが、今はすっかり教師の顔になっていた。
「はい、それじゃあ数学の授業を始めるわよ。教科書を開いてね」
……そういえば、永井先生って数学の担当だったのか。
俺も周囲に合わせて教科書を開いた。
さて、どうなることやら。
高校の授業を受けるなんて十数年ぶりだ。数学の公式なんて、ほとんど忘れていると思っていた。社会人になってからは難しい計算をする機会もなく、日常生活で使うのはせいぜい買い物の合計金額を計算するときくらいである。
ところが、黒板に書かれた式を眺めていると、不思議と見覚えがあった。
……あれ?これって、こうやって解くんじゃなかったっけ。
試しにノートへ式を書いてみる。途中で少し迷ったものの、永井先生が説明した解き方とほぼ同じになった。
おお、合ってる。
意外と覚えているもんだな。
俺は学生時代、特別勉強が得意だったわけではない。かといって、極端に成績が悪かったわけでもなかった。テストではだいたい平均点前後をキープしていて、得意科目で少し稼ぎ、苦手科目でその貯金を使い果たす。そんな、ごく普通の生徒だった。
だからこそ、十数年ぶりの数学についていけているのは少し嬉しい。
もっとも、今やっているのは高校一年生の範囲だ。三十五歳の俺が感動するほどのことでもない気はするが、そこは勘弁してほしい。こちらは人生二度目の高校一年生なのだから。
「じゃあ、この式を変形するとどうなるかしら?」
永井先生が黒板を指す。
俺はノートに視線を落とし、鉛筆を動かした。
うん、これなら分かる。
窓から差し込む日差しが暖かい。教室にはチョークの音と、ノートをめくる音が静かに響いている。
なんだか懐かしいな。
会社が突然なくなって、これからどうするかと頭を抱えていたのが、ついこの間のことだ。それが今では制服を着て、高校の教室で数学の授業を受けている。
人生、本当に何が起こるか分からない。
しかも今日は、妙に気分がいい。
朝からいろいろあって緊張していたはずなのに、今は肩の力が抜けている。体がほんのり温かく、気持ちもふわふわしていた。
……まあ、理由は分かっている。
今朝、麻由の姿になるためにビールを二本飲んできたからだ。
とはいえ、授業の内容はちゃんと頭に入ってくるし、ノートも取れている。今のところ眠気もない。
むしろ、いつもより楽しいくらいだ。
俺は黒板を眺めながら、自然と頬を緩めていた。
すると、少し離れた席から女子たちの小さな話し声が聞こえてきた。
「ねえ、花川さん見て」
「うん?」
「なんか、ずっと笑ってない?」
……ん?
自分の名前が聞こえ、何気なく声のするほうへ目を向けると、窓際の席にいる女子二人と目が合った。
「分かる。なんか楽しそう」
「かわいいよね。普通にしてても綺麗なのに」
「それにさ、ちょっと色気がある感じしない?」
「あ、それ思った!なんか大人っぽいよね」
……えっ。
色気?
俺に?
いや、今の俺は麻由だから、見た目の話としては分からなくもない。鏡を見るたびに、自分でも驚くくらい綺麗な顔をしているのは事実だ。
でも、今のこの雰囲気については、少々誤解があると思う。
ごめんなさい。
それは多分、色気じゃありません。
酒気です。
心の中で謝った瞬間、すっと我に返った。
……待て待て。何を浮かれてるんだ、俺は。
いくら授業が懐かしいからって、にこにこしすぎだろう。周りから見れば、転校初日なのに妙に上機嫌な女子高生である。
俺は慌てて口元を引き締め、背筋を伸ばした。
「……あ、真顔になった」
「でも、真顔も綺麗」
聞こえてるぞ。
嬉しいけど、聞こえてるからな。
これ以上意識すると余計に変な顔になりそうなので、俺は黒板へ視線を戻した。
ちょうどそのとき、永井先生が新しい問題を書き終えたところだった。
「さて、これは少し応用問題ね。誰か前に出て解いてみない?」
教室が静かになる。
こういうときの沈黙、懐かしいな。学生時代も、先生が黒板に問題を書くたびに全員が目を逸らしていたっけ。
俺も当然、ノートを見るふりをした。
分からないわけではないが、転校初日から黒板の前に立つ勇気はない。
「じゃあ……白川さん、お願いできる?」
「はい、先生」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、麗奈がすっと立ち上がっていた。
ハーフアップにまとめた柔らかな髪を揺らしながら、姿勢よく教壇へ向かう。その歩き方は、いつもの少し慌てた様子とは違って、驚くほど落ち着いていた。
……へえ、麗奈ちゃんが解くのか。
黒板の問題を見る。
うん。さっきまでの問題より、明らかに難しそうだ。
俺なら、まずどの公式を使うか考えるところから始めるだろう。
ところが麗奈は、チョークを手に取ると、ほとんど迷わず式を書き始めた。
カッ、カッ、カッ。
黒板に数字と記号が並んでいく。
途中で手が止まることもなければ、書いた式を消すこともない。まるで答えまでの道筋が最初から見えているかのようだった。
そして、あっという間に最後の答えを書き終えた。
「これでよろしいでしょうか?」
「ええ、正解よ。途中式もきちんと書けているわね」
「ありがとうございます」
麗奈は丁寧に頭を下げ、席へ戻っていく。
俺は思わず、その姿を目で追ってしまった。
「え、すご……」
小さく口にすると、隣の席の女子がこちらを向いた。
「白川さん、学年トップなんだよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。先々週の中間テストも一位だったんだって」
……マジか。
あの方向音痴のお嬢様が、学年トップ?
思わず麗奈を見ると、本人は何事もなかったようにノートを取っていた。さっきまで俺の席の後ろでぴょこぴょこ跳ねていた人物とは思えない。
いや、もちろん同じなんだけど。
「はい、そこ。お喋りはあとにしてね」
「あっ、すみません!」
永井先生に注意され、俺たちは慌てて黒板へ向き直った。
それからは余計なことを考えず、授業に集中することにした。久しぶりの数学は思った以上に楽しく、気づけば終了のチャイムが鳴っていた。
「はい、今日はここまで。次回はこの続きからね」
永井先生が教科書を閉じると、教室のあちこちで生徒たちが伸びをしたり、友達と話し始めたりした。
俺もノートを閉じ、隣の女子へ顔を向けた。
「さっきの話なんだけど、麗奈ちゃんってそんなに頭いいの?」
「うん、すごいよ。先々週の中間テストも学年トップだったし、入学式では新入生代表の挨拶もしてたんだ」
「新入生代表?」
「そう。入試も首席だったらしいよ」
「へえ……」
俺は改めて麗奈を見た。
彼女は自分の席で教科書を丁寧にしまっている。あの落ち着いた姿だけを見れば、成績優秀なお嬢様という評判にも納得できる。
ただ、俺としては、道に迷って困っていた姿や、嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねていた姿のほうが印象に残っている。
「白川さんって、勉強だけじゃなくて礼儀作法もしっかりしてるし、理事長の娘でしょ?なんか、私たちとは住む世界が違うって感じなんだよね」
「……そうなんだ」
「もちろん、いい子だよ。話しかけたらいつも優しいし。でも、なんとなく緊張しちゃうっていうか……」
その言葉に、さっきの休み時間の光景が重なった。
麗奈が話しかければ、みんな丁寧に返事をする。けれど、俺に向けるような気軽な冗談は出てこない。
お金持ちで、成績優秀で、礼儀正しい。しかも理事長の娘となれば、周囲が特別な存在として見るのも無理はないのかもしれない。
俺だって、初めて麗奈に会ったときは、ずいぶん変わったお嬢様だと思った。
でも、今は違う。
麗奈はよく笑うし、少し抜けているところもある。友達と遊ぶのが嬉しくて仕方ない、普通の女の子だ。
それを知っているからこそ、周囲との距離が少しもったいなく感じられた。
そんなことを考えていると、隣の女子が時間割を見ながら口を開いた。
「あっ、次は体育だね」
……体育?
俺は顔を上げた。
そういえば、時間割をちゃんと確認していなかった。
「今日の体育って何やるんだっけ?」
「持久走だよ」
「…………え?」
「持久走。グラウンドを走るんだって」
……持久走。
その三文字が、頭の中で何度も繰り返された。
ちょっと待て。
俺は今朝、ビールを二本飲んでいる。
その状態で、持久走?
しかも今の体は、運動能力がどれほどあるのかも分からない十六歳の女の子だ。
いや、そもそも飲酒した状態で走るのはまずいだろ。
俺はゆっくりと机に視線を落とした。
高校に通うことになってから、授業中に元の男の姿へ戻ってしまわないかとか、クラスメイトに正体がばれないかとか、そんなことばかり心配していた。
授業についていけるかどうかも、少しは考えた。
だが、体育のことは完全に頭から抜け落ちていた。
……そうだよな。
高校って、体育もあるんだよな。
なんで今まで気づかなかったんだ、俺。
「花川さん?どうしたの?」
「……ううん。ちょっと」
俺は力なく首を振った。
数学の授業が始まったときには、あんなに気分がよかったのに。
今はもう、さっきまでの浮かれた気持ちなんて吹き飛んでいた。
いや、酒そのものが抜けたわけではない。
そこが一番の問題なんだけど。
人生二度目の高校生活。
最初の授業は、思いのほか順調だった。
しかし、その次に待ち受けていたのは、想像もしていなかった試練である。
……どうしよう。
体育のこと、全っ然考えてなかった。




