第14話 酒好き教師と酒好き女子高生
理事長室で待っていると、ほどなくして扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、一人の女性だった。
年齢は二十代後半くらいだろうか。肩にかかる程度の髪をきれいに整え、落ち着いた色のスーツを着ている。すらりとした立ち姿に整った顔立ちで、いかにも教師という堅い雰囲気はない。最初に抱いた印象は、普通に美人なお姉さんだった。
「花川さんを迎えに来ました」
「ああ、永井先生。よろしく頼むよ」
「はい」
宗一郎さんと短く言葉を交わしたあと、女性が俺へ向き直った。
「初めまして。今日から花川さんのクラスを担当する永井彩未です。よろしくね」
「花川麻由です。よろしくお願いします」
俺も立ち上がって頭を下げる。
永井彩未先生。どうやら、この人がこれから俺の担任になるらしい。
見たところかなり若い。二十代後半くらいだとすれば、本来なら三十五歳の俺のほうが年上だろう。それなのに今の俺は十六歳の女子高生として、この人から授業を受ける側なのだから、なんとも不思議な気分だった。
「じゃあ、教室まで一緒に行きましょうか」
「はい」
宗一郎さんに挨拶をして、永井先生と一緒に理事長室を出る。
廊下にはすでに生徒の姿が少なくなっていた。もうすぐホームルームが始まる時間なのだろう。静かになりつつある校内を歩いていると、隣の永井先生がこちらを見た。
「緊張してる?」
「少しだけ」
「大丈夫よ。そんなに怖い子はいないから」
「怖い子が少しはいるみたいな言い方ですね」
「あら、鋭い」
永井先生が楽しそうに笑う。
見た目だけなら落ち着いた美人教師という感じだったが、思ったより話しやすそうな人だ。担任がこの先生なら、案外うまくやっていけるかもしれない。
そう思いながら歩いていたところで、ふと鼻に何かが引っかかった。
「……ん?」
何だろう。
ほんのわずかだが、どこかで嗅ぎ慣れた匂いがする。
気のせいかと思ってもう一度さりげなく息を吸ってみると、やはり感じた。
酒の匂いだ。
俺は思わず隣を歩く永井先生を見た。
まさか、この先生、酒くさい?
いやいや、教師だぞ。しかも今は朝だ。そんなわけがないだろうと思ったところで、別の可能性に気づき、今度は自分の顔が引きつった。
待てよ。
酒を飲んできたの、俺じゃないか。
しかも一本ではない。朝からビールを二本も空けている。
家を出る前に歯を磨き、マウスウォッシュまで使った。口臭ケアも念入りにしたつもりだが、それで完全に消えた保証なんてどこにもない。
もしかして先生じゃなくて、俺から?
「どうしたの?」
「えっ?」
「急に黙ったから」
「な、なんでもないです」
「そう?」
永井先生が不思議そうにこちらを見る。その視線から逃げるように顔を逸らしたものの、一度気になり始めるともう駄目だった。
もし酒臭かったらどうする。
初登校の日、担任と教室へ向かう途中で飲酒が発覚する十六歳。まだクラスメイトに自己紹介すらしていないのに、高校生活が始まる前から終わりかねない。
さりげなく自分の息を確認してみても、飲んだ本人の鼻ではよく分からない。
「花川さん?」
「はい!」
思わず大きな声が出た。
永井先生は一瞬驚いたものの、すぐに小さく笑った。
「本当に大丈夫?やっぱり緊張してるんじゃない?」
「……そういうことにしておいてください」
「ふふ。分かった」
違う。今の俺を緊張させているのは、これから会うクラスメイトではなく酒臭さだ。
そんな心配をしているうちに、一年二組の教室へ到着してしまった。扉の向こうからは何人もの生徒が話す声が聞こえてくる。
「ここが今日から花川さんのクラスよ。私が先に入るから、呼んだら入ってきてね」
「分かりました」
永井先生が扉を開けて中へ入る。
俺は廊下に残ったまま、開いた扉の隙間から教室を覗いた。
何十人もの生徒がいる中、すぐに見覚えのある顔を見つける。
麗奈だ。
席に座っていた麗奈もこちらに気づいたらしく、ぱっと表情を明るくした。今にも手を振りそうになったものの、永井先生が教壇に立っていることを思い出したのか、途中で慌てて手を止めている。
相変わらず分かりやすい。
その姿を見ただけで、さっきまでとは違う意味で肩の力が抜けた。少なくとも、この教室にはすでに一人、俺のことを待ってくれている友達がいる。
「みんな、席について」
永井先生の声で、教室が少しずつ静かになっていく。
「今日は新しくこのクラスに入る子を紹介します」
途端に、教室のあちこちから小さなざわめきが起こった。
「転校生?」
「女子かな」
「朝、校門で見た子じゃない?」
「え、あのめっちゃかわいい子?」
……聞こえてるぞ。
廊下まで普通に聞こえてくる。
少し恥ずかしくなっていると、永井先生がこちらを向いた。
「花川さん、入って」
「はい」
返事をして教室へ入った瞬間、それまでのざわめきが一段大きくなった。
「うわ、やっぱあの子だ」
「かわいっ」
「髪きれいじゃない?」
「すごい美人」
「マジで同じクラス?」
朝、学校へ来る途中でも似たような反応をされたが、教室という狭い空間で一斉に言われるとさすがに照れる。
ただ、嫌ではない。
むしろかなり嬉しい。
麻由の姿がかわいいことは自分でも分かっているつもりだったが、これだけ周囲から反応されると、改めて本当にそうなんだなと実感する。
顔が緩みそうになるのをなんとか堪えながら教壇の前まで行くと、永井先生が俺へ場所を譲った。
「じゃあ、自己紹介をお願いできる?」
「はい」
改めて教室を見渡す。
何十人もの高校生から一斉に見られているのは、やはり少し緊張する。それでも麗奈が自分のことのように嬉しそうな顔をしているのが見えて、自然と笑うことができた。
「花川麻由です。今日からこのクラスでお世話になります。まだ分からないことばかりなので、いろいろ教えてもらえると嬉しいです。よろしくお願いします」
軽く頭を下げると、教室から拍手が起こった。
その中に「声もかわいい」「あとで話しかけよう」といった声まで混じっている。どうやら第一印象は悪くなさそうだ。
麗奈と友達になれたとはいえ、せっかくもう一度高校へ通うのなら、今度はもっといろいろな人と関わってみたい。昔のように授業を受けて帰るだけの三年間にはしたくなかった。
少なくとも、その最初の一歩はうまくいったらしい。
そう思って安心しかけたときだった。
「……なんか酒くさくね?」
「っ!?」
心臓が大きく跳ねた。
思わず身体までびくっと動いてしまう。
やっぱり消えてなかったのか!
朝から二本も飲んだのだから、考えてみれば当然なのかもしれない。あれだけ口臭ケアをしたのに駄目だったらしい。
どうする。今から何と言い訳する。
そんなことを必死に考えながら恐る恐る教室へ目を向けたのだが、すぐに妙なことに気づいた。
誰も俺を見ていない。
酒臭いと言った男子も、その周りにいる生徒たちも、視線を向けているのは俺の隣だった。
「先生、また飲んだんですか?」
「…………え?」
思わず俺まで声を漏らし、隣を見る。
そこには、ものすごく嫌そうな顔をした永井先生が立っていた。
「またって何よ」
「だって先生、酒くさいっすよ」
「うそ」
永井先生は慌てて口元を手で覆い、自分の息を確かめ始めた。
「おかしいわね……酒はもう抜けてるはずなんだけど」
「抜けてる『はず』って言ってる時点で飲んでるじゃないですか」
教室から笑いが起こる。
「昨日ちょっと飲んだだけよ」
「ちょっとで二日酔いになります?」
「二日酔いじゃないわよ。ちょっと胃がむかむかしてるだけ」
「それを二日酔いって言うんですよ」
「朝からうるさいわねえ」
永井先生は鬱陶しそうに言い返しているが、本気で怒っている様子はない。生徒たちも慣れているようで、教室の雰囲気はすっかり和んでいた。
どうやら普段から生徒との距離が近い先生らしい。
理事長室へ迎えに来たときには、美人で落ち着いた先生だと思ったのに、ほんの十分ほどで印象がかなり変わってしまった。
「先生、昨日も一人酒ですか?」
さっきの男子がさらにからかうと、永井先生が眉を寄せる。
「『昨日も』って何よ。別に一人で飲んだっていいでしょう」
「否定しないんだ」
「家で静かに好きなお酒を飲むのが一番落ち着くの!」
「寂しっ」
「……あとで職員室来なさい」
「横暴だ!」
教室がまた笑いに包まれ、俺もつられて笑ってしまった。
それ以上に大きかったのは安堵だった。
よかった。
酒くさいと言われたのは俺じゃなかった。
廊下で感じた酒の匂いも、おそらく永井先生のものだったのだろう。今日一番と言っていいくらいほっとした。
「まったく……」
永井先生はため息をついてから、俺へ申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね、花川さん。初日から変なところ見せちゃって」
「いえ、大丈夫です」
むしろ一気に親近感が湧いていた。
三十五歳まで毎日のように酒を飲んできた俺としては、一人酒の何が悪いと言いたい。家で好きなものをつまみながら、誰にも邪魔されずゆっくり飲む時間が最高なのもよく分かる。
さっきまでは自分より年下の美人教師という印象だったが、どうやら永井先生とは別の意味でもうまくやっていけそうだ。
もちろん、それを本人に伝えるわけにはいかない。
先生、安心してください。
酒好き仲間なら、すぐ隣にいます。
しかも俺は今日、朝から二本です。




