第11話 甘いチョコレートの落とし穴
スマホに表示された時刻を見た瞬間、それまで残っていた眠気が一気に吹き飛んだ。
「……やばい」
朝、麗奈から電話がかかってきたあと、俺は麻由の声でかけ直すためにビールを一本飲んだ。
それから、もう七時間近く経っている。
昨日わざわざ一日かけて調べた結果では、ビール一本で麻由の姿でいられたのは六時間三十五分だった。多少の誤差があるとしても、とっくに正由へ戻っていてもおかしくない時間だ。
今のところ、手は細いままだし、肩からは長い黒髪が流れている。
まだ麻由だ。
だからこそ、余計に怖かった。
いつ戻ってもおかしくない。
「帰らないと……」
慌てて立ち上がり、バッグを手に取る。
ここで三十五歳の男へ戻るのだけは絶対にまずい。
白川家の人間からすれば、シアタールームで麗奈と映画を見ていたはずの少女が突然いなくなり、代わりに見知らぬ三十五歳の男が現れることになる。
どう説明したところで不審者である。
「……麻由さん?」
「っ!」
背後から声がして振り返ると、麗奈がゆっくり身体を起こしていた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「もう……お帰りになりますの?」
「う、うん。ちょっと急用を思い出して」
「そう……ですの……」
麗奈はまだ眠そうに目を細めたまま、見るからにしょんぼりした。
「もう少し……一緒に遊びたかったですわ……」
「…………」
めちゃめちゃかわいい。
普段のお嬢様然とした麗奈からは想像できないほど素直な言い方だった。
そんな顔をされると帰りづらくなる。
だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「ごめんね。また今度ゆっくり遊ぼう」
「……はい」
麗奈は少し残念そうにしながらも頷き、椅子から立ち上がろうとした。
「では、玄関までお見送りを――」
「いやいや、寝てていいよ」
「そういうわけにはまいりませんわ。お友達がお帰りになるのですから、きちんと……」
一歩踏み出したところで、麗奈の身体がふらりと傾いた。
「危ない!」
反射的に腕を伸ばして支える。
「大丈夫?」
「ええ……大丈夫ですわぁ……」
「いや、大丈夫な人の動きじゃないって」
俺の腕につかまったまま、麗奈がゆっくり顔を上げる。
なんだか様子がおかしい。
頬がほんのり赤く、目元もいつもよりぼんやりしている。喋り方まで妙にゆったりしていて、全体的にぽわぽわしていた。
「麗奈ちゃん、具合悪い?」
「いいえ……ただ少し、身体がふわふわいたしますの」
「ふわふわ?」
その言葉に引っかかった。
どこかで聞いたような、というより、俺自身がよく知っている感覚だった。
そう思った途端、今度は自分の身体にも意識が向く。
「…………あれ?」
おかしい。
朝のビールから七時間近く経っている。それなのに麻由のままでいるどころか、酒が完全に抜けたときの感覚とも少し違っていた。
ほんのわずかだが、身体の奥にまだアルコールが残っているような感覚がある。
昼食を食べたから吸収が遅れた?
それとも昨日の計測がたまたまだった?
考えながら視線を巡らせたところで、テーブルの上に残っていたお菓子が目に入った。
クッキーと、チョコレート。
映画が始まる前、麗奈と一緒に食べたものだ。
「……まさか」
俺はチョコレートの箱を手に取った。
食べたときから少し変わった味だとは思っていた。濃厚で美味しく、二個ほど食べたあたりから妙に気分がよくなったのも覚えている。
箱を裏返し、表示を確認する。
「…………これか」
「どうかなさいましたの?」
麗奈が不思議そうに俺の手元を覗き込む。
「アルコール入ってる」
「まあ……」
「『まあ』じゃないよ。麗奈ちゃん、これ二個食べたよね?」
「麻由さんも二個召し上がっておりましたわ」
「食べたけどさ」
「お揃いですわね」
「そこ喜ぶところじゃないから」
麗奈がふふっと楽しそうに笑う。
間違いない。
この子、酔ってる。
その事実に気づいたところで、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
直後、シアタールームの扉が勢いよく開く。
「麗奈お嬢様!」
何人かのお手伝いさんが入ってきた。
先頭にいた一人が、真っ先にテーブルの上へ視線を向ける。
そして、そこに置かれたチョコレートの箱を見た瞬間、さっと顔色を変えた。
「あっ……!やっぱりこちらに……!」
「え?」
「も、申し訳ございません!」
突然、深々と頭を下げられた。
「そちらは旦那様用にご用意していたチョコレートでございます! 先ほど別のお菓子を用意しようとした際に、取り違えていたことに気づきまして……!」
「取り違え?」
「はい……! 本来、お二人にお出しするものではございませんでした。誠に申し訳ございません!」
「ああ……やっぱり」
俺は妙に納得してしまった。
旦那様――つまり宗一郎さん用だったらしい。そりゃ、お手伝いさんたちも慌てるわけだ。
俺はともかく、麗奈が食べる予定のものではなかったということだ。
「本当に申し訳ございません!」
「私は大丈夫です。それより麗奈ちゃんを」
「麗奈お嬢様、お加減はいかがでしょうか!?」
「大丈夫ですわ……少し眠いだけですの」
どう見ても普段の麗奈ではない。
ほどなくして騒ぎを聞きつけたのか、宗一郎さんまでシアタールームへやってきた。
「麗奈!」
「お父様……」
宗一郎さんは真っ先に娘のところへ向かい、様子を確認すると、今度は俺へ申し訳なさそうな顔を向けた。
「麻由さん、本当にすまなかった。君は大丈夫かね?」
「私は全然平気です」
「気分が悪かったりは?」
「ないです。普通ですよ」
むしろ俺としては、さっきより安心しているくらいだった。
麻由の姿が予想より長く続いている理由が分かったのだから。
「そうか……。念のため、家まで車で送らせよう」
「いえ、大丈夫です。歩いて帰ります」
「しかし――」
「本当に平気ですから。それに、少し外の空気も吸いたいので」
宗一郎さんはまだ心配そうだったが、俺が何度か大丈夫だと伝えると、最後には頷いてくれた。
「分かった。だが、少しでも具合が悪くなったら必ず連絡してほしい」
「はい」
「麗奈は部屋で休ませよう」
「わたくし、自分で歩けますわ……」
そう言って麗奈が立ち上がろうとしたものの、やはり足元がおぼつかない。
宗一郎さんは小さくため息をつくと、そんな娘を抱き上げた。
「今日は大人しくしていなさい」
「まあ……お父様。わたくし、もう子供ではありませんのに……」
「その台詞は自分でまっすぐ歩けるときに言いなさい」
「歩けますわ……たぶん……」
「たぶんなのか」
思わず笑ってしまった。
抱えられた麗奈がこちらを見る。
「麻由さん……」
「ん?」
「また……遊びましょうね」
「うん。また遊ぼう」
そう答えると、麗奈は安心したように微笑んだ。
宗一郎さんはもう一度俺へ頭を下げ、そのまま麗奈を連れて部屋を出ていった。
俺もお手伝いさんたちから何度も謝られながら白川家をあとにする。
外へ出ると、夕方の涼しい風が長い髪を揺らした。
「……危なかったぁ」
門から少し離れたところで、ようやく大きく息を吐く。
本当にぎりぎりだった。
あのチョコを食べていなかったら、映画を見ている最中か、目を覚ました直後には正由へ戻っていた可能性が高い。
だが、俺が気になったのはそこだけではなかった。
「アルコール入りのチョコでもいいんだ……」
歩きながら自分の手を見る。
まだ麻由のままだ。
これまで俺は、ビールや缶チューハイを飲むことで麻由になっていた。
だから何となく「酒を飲むこと」が必要なのだと思っていた。
しかし今日口にしたのは、アルコールの入ったチョコレート。それでも麻由でいられる時間が明らかに延びている。
「ってことは……」
必要なのは、酒という飲み物ではないのかもしれない。
身体にアルコールが入っていること。
それ自体が重要なのだとしたら――。
「これ、結構大きな発見じゃないか?」
月曜日からは学校が始まる。
毎朝ビールを二本飲んで登校するしかないと思っていたが、もしかすると別の方法も考えられるかもしれない。
偶然食べた二粒のチョコレートが、思っていた以上に重要なヒントになった。
その日の夜。
すっかり正由へ戻り、家でくつろいでいると、スマホにメッセージが届いた。
麗奈からだった。
『麻由さん。本日は途中で眠ってしまって申し訳ございませんでした。せっかく遊びに来てくださいましたのに……』
文面を読んで、思わず笑ってしまう。
『気にしなくていいよ。私も寝ちゃったし、楽しかったよ。また遊ぼう』
そう返すと、ほどなくして返信が届いた。
『はい! 次は絶対に最後まで起きておりますわ!』
「そこ気にしてたのかよ」
一人で笑いながらスマホを置く。
今日はいろいろあったが、結果的には楽しかった。
それに、思いがけない発見もあった。
アルコール入りのチョコレート。
俺はその存在を頭の片隅にしっかりと刻み込んだ。
高校生活が始まるまで、あと二日。
どうやら俺はまだ、自分の身体について知らないことがたくさんあるらしい。




