アクビひとつで歩く町
──ガキのまんまだ、と笑われたのは何年ぶりだろう。
中川の土手に夕陽が沈んでいく。
その光をめがけて小石を蹴ったら、滑って靴まで飛んでいった。
うしろでジョギングしてた大工の頭領に「ったく変わんねぇなぁ、お前は」と苦笑される始末だ。
俺はアクビをひとつ。
落っことしたのは靴だけじゃない。きっと“元気”もどこかに転がっていったんだろう。
「ま、いっか……」
ポケットに手を突っ込んで、久々の帰郷に足を動かす。
変わらない町並み。くすんだ商店街。焼き鳥のにおい。
全部が、どこか優しい。
──ただいま。
そう呟くには、ちょっと照れくさい。けど心の中ではちゃんと言った。
中央広場を通りかかると、聞き覚えのある笑い声がした。
ベンチに座っていたのは、小学生の頃に好きだった彼女。
あの頃からちょっとふっくらしてたけど、今じゃもう堂々たるお母さん。子供の手を引きながら、俺を見て目を見開いた。
「えっ……タカシ?」
「おぉ……マリ? 久しぶりだな」
ぎこちない会話。でも、すぐに笑い合えるのが、昔馴染みってやつだ。
「まさか帰ってくるなんて。東京に骨埋めるんじゃなかったの?」
「ま、それが失敗してさ。田舎もんには向いてなかった」
「変わんないねぇ、ほんとに」
そう言って笑う彼女の目尻には、少しシワがあったけど、それがまた優しさに見えた。
「ねぇ、覚えてる? ゴンパチ池で私にラブレター渡したこと」
「……うっ。忘れたいのに」
「ふふ。今も持ってるんだよ。引っ越しのとき見つけてさ。読み返して笑った」
耳が熱くなる。こっぱずかしい話だ。でもどこか、嬉しかった。
「なーんだ。いいことなんて、何もなかったと思ってたけどな……」
俺はつぶやくように言った。
彼女は、しばらく黙って空を見上げた。
「……いいことなんて、覚えてるかどうかじゃない? あとから気づくもんじゃない?」
「なるほどな」
もう一度、アクビをした。
雲がゆっくり流れていく。ラプソディーでも口ずさもうか。なんとなく、そんな気分だった。
日が落ちかけた取水塔の先には、帝釈天のシルエット。
どこか懐かしいと感じるのは、きっと子供の頃の帰り道と似てるからだ。
俺は歩く。特に目的もなく、ただこの町を。
駅前の立ち食いそば屋はまだあって、店主の顔も変わっていなかった。
「おう、兄ちゃん帰ってたのか。いつもの?」
差し出されたのは、かき揚げそば。学生の頃、小遣い握りしめてよく通った。
一口すすると、昔の味が舌の奥に広がる。
泣きそうになるのは、年のせいか。
夜になっても、この町の灯りは派手じゃない。
だけど、あたたかい。
ふと、自販機の隣でひとりしゃがみ込んでる少年を見つけた。
どうやらコインを落としたらしい。
俺は小銭を取り出して言った。
「ほら。アクビひとつで、ちょっと元気出るよ」
少年はポカンとした顔で俺を見て、少しだけ笑った。
なんだ、俺も誰かにそうしてもらってきたのかもしれないな。
何もないと思ってたこの町は、実はいっぱい“くれた”んだ。
柴又の川辺まで戻ると、星が出ていた。
川の流れが静かに夜を運んでいく。
明日もきっと、こうして終わるんだろう。
同じような風景、同じような一日。
でもその繰り返しが、幸せってやつかもしれない。
俺はようやく気づいた。
なくしてからしか見えないものが、ここにはあったってことに。
夕陽も、ラブレターも、アクビも、かき揚げそばも。
「……ただいま」
今度は、ちゃんと声に出して言った。
この町に、過去の自分に、そして誰より、俺自身に。
原曲 堂島考平 葛飾ラプソディー




