名前のない役を演じる僕らへ
春の風は、どうしてこんなに苦いのだろう。
三番ホームに滑り込む準急電車を、乗るでもなく見送る。その風が僕の髪を揺らし、目に入った埃を涙に変えて押し流した。
「乗らないの?」
いつの間にか隣にいたのは、制服姿のままの小松だった。いつも無口で、けれどいつも誰より先に気づく奴だ。
「うん……今は、まだいいかな」
言い訳にもならない言葉だった。けれど小松は何も言わずに、僕の隣に腰を下ろす。ベンチの冷たさが、春の終わりを告げている。
***
三月。高校生活の最後。
誰もがそれぞれの春を見つけて走り出す中で、僕はひとり、取り残されていた。
志望校に落ちた。
部活も引退した。
恋をした相手は、別の誰かと付き合いだした。
そういうことが全部重なると、人は「価値がない」と思ってしまうものらしい。
将来の夢を語るクラスメイトの声が、どんどん遠くなっていく。
「お前はどうすんの?」と訊かれても、答えられない。
いや、答えたくない。
僕は、何者にもなれないまま、大人になってしまうのか。
***
「お前、昔“映画監督になりたい”って言ってたよな」
そう言ったのは小松だった。ある日の帰り道、桜の花がまだ咲ききらない遊歩道で、僕は何気なくうなずいた。
「言ってたなあ。今となっちゃ笑っちゃうけど」
「なんで?」
「だって……才能ないもん。あの頃は、主人公になれるって思ってた。でも、実際は名前すらないモブだった。スピンオフも作られない、通行人その1」
「そんなことない」
即答だった。
「たとえ今、脚本に名前が載ってなくても、自分の物語は、自分で回してんじゃん」
「……何それ、熱いな」
「まぁな。俺、映画とか詳しくないけどさ、“エンドロールに名前が無くても、本編に出てる奴が一番強い”って思うんだよ」
不意に笑いそうになった。でも、なんだろう。胸の奥がワサワサする。
電車の音が遠くなり、春の風がふたりの肩を包んでいった。
***
深夜、眠れなかった。
ふと棚の奥から、埃を被ったノートを取り出す。
高校一年の頃。自分が書いた映画の脚本。ページの隅に、「By my side」というタイトル。
主人公は、親友を事故で失った少年。日々に絶望しながらも、“大切な人の記憶”と共にもう一度立ち上がる——そんな物語だった。
懐かしい。
でも、今読むと、どこか自分自身の話みたいで。
涙が止まらなかった。
***
卒業式の日。空は晴れていた。
だけど僕の心は曇りがちで、どこか青くはなかった。
校舎の裏手。桜の木の下で、小松とまた会った。
「なんで来たんだ、こんなとこ」
「いや、お前がいそうだったから」
「探す宛てもないのに?」
「まあな。でも、見つかっただろ」
その一言に、胸がぎゅっとなる。
***
卒業式が終わってからの日々は、なんとなく空白だった。
みんなが前を向いて歩いていく中で、僕はまだ止まっていた。
でもある日、ふと思い立って、あの脚本を修正してみた。
「By my side」ではなく、新しいタイトルをつけた。
『名前のない役を演じる僕らへ』
そして、投稿サイトにアップしてみた。
期待なんかしていなかった。でも、数日後。
「読んだよ」
と、小松からメッセージが来た。
「びっくりした。お前の“言葉”、ちゃんと届いたよ」
画面の向こうから、声が聞こえた気がした。
「誰のために書いたか、分かる気がした」
***
4月のある日。僕は上京していた。
美術大学の映画学科に、補欠で合格していたのだ。
本当に滑り込んだだけのチャンスだったけど、今の僕にはそれで十分だった。
踵を浮かせるようにして歩いてみる。
ふらふらするけれど、前には進める。
***
ある日の課題で、教授に訊かれた。
「なぜ、映画を撮るの?」
僕は答えた。
「意味のないことなんて、ないって証明したいんです」
言葉にすると、恥ずかしいような、でも嘘じゃない思いだった。
どんなに小さな傷でも、誰にも理解されない孤独でも、それでも意味はある。
そう信じたいから、僕は今日を撮る。
***
僕が投稿した脚本は、少しずつ評価され始めていた。
「高校生の頃の感情が、詰まっている気がした」
「光も闇も、どちらもあるからリアル」
「自分の気持ちを代弁してくれたようだった」
そんな声が届いた。
画面の向こうから届いたその言葉が、過去の僕を救ってくれる気がした。
***
あの頃の青を、忘れずにいよう。
三番ホームで見送った準急電車。
あの時、乗らなかったことを、もう後悔はしていない。
あれもまた、僕の物語の一部だった。
苦味が重なっても、それもまた“光”だ。
割に合わない傷も、今なら愛おしい。
***
そして、僕は今も歩いている。
誰かの物語の“主人公”ではないかもしれない。
でも、自分の人生の中では、僕が主人公だ。
もう、名前のない役じゃない。
自分で台詞を作って、自分で歩いて、自分で傷ついて。
そのすべてが、未来の物語に繋がっている。
不完全な僕だけど、それでも。
僕は、僕を——
愛してる。愛せてる。
原曲 ミセスグリーンアップル ライラック




