『夫婦を越えてゆけ』
夕暮れの商店街は、昼間の喧騒を終え、静けさの中に色を残していた。八百屋の店先に残る少し傷んだリンゴ、ラジオから流れる演歌、猫のように気ままに歩く人影。全てがこの街の「暮らし」を形作っている。
光司はコンビニの袋を下げて、坂道をゆっくり登っていた。袋の中には妻・菜月の好きな、チーズの入った肉じゃが用のコロッケ。職場の帰りにふと思い出したのだ。「あ、あいつ、今日あたり疲れてる顔してたな」と。
家の灯りが見えると、自然と歩幅が速くなった。菜月と暮らして10年が過ぎた。特別なことは何もない。けれど、些細なことを思い出しては行動に移すようになったのは、結婚してからのことだった。
「ただいま」
玄関を開けると、菜月の足音がキッチンから近づいてくる。
「おかえり。雨、降らなかった?」
「うん、ギリギリセーフ。はい、これ」
そう言って、袋からコロッケを取り出すと、菜月は少しだけ目を見開いた後、ふふっと笑った。
「…今日、すごくそれ食べたかった」
「やっぱりな」
さりげない会話。でも、こういうのが夫婦ってやつだと思う。
晩ご飯はささやかなものだった。味噌汁、白米、ほうれん草のお浸し、そしてコロッケ。二人で並んで食卓に座り、光司はぽつりと聞いた。
「さ、最近、思うんだよな」
「なに?」
「お前とこうしていられることって、当たり前じゃないんだって」
菜月は箸を止めて、彼の方を見た。
「誰かと一緒に生きるって、難しいことだなって。でもさ、俺は幸運だったよ。お前がいてくれて」
「……急にどうしたの?」
「んー、何か今日の街の感じがさ、すごく“生きてる”って感じで。人もカラスも風も、全部、暮らしの一部っていうか……」
言葉に詰まる光司を見て、菜月は笑った。
「そういうの、たまには言ってくれてもいいけどね。私も今日、似たようなこと思ってたよ。駅のベンチに、男の子とおばあちゃんが座っててさ、手をつないでたの。すごく穏やかな風景で……その時、ふと“私もこんなふうに、誰かの安心になれてるかな”って」
「……お前はなれてるよ。俺にとっては」
二人はそのまま、箸を動かすのを忘れて見つめ合った。
時間が経てば、恋は色褪せるとも言われる。でも、色褪せるのではなく、染まり直していくのだと思う。あの頃の情熱は今や、温もりとなって日々の中に溶け込んでいる。
夜、布団に入ってからも、菜月は光司の背中にそっと手を伸ばす。
「ねえ、まだ覚えてる? 最初に出会った日のこと」
「覚えてるさ。あの日も夕暮れだった。お前が本屋で漫画のコーナーにいたんだ」
「私は…あの日、少し泣いてたの、知ってた?」
光司は身体を起こして、菜月の方を向いた。
「……知らなかった。なんで泣いてたんだ?」
「ううん、大した理由じゃないよ。失恋したばかりで、でも本を読んだらなんか救われて。そこであなたに出会った。笑ってたよね、無神経に」
「無神経だったのは認める。でも……今も変わらず、お前のことが好きだよ」
その言葉に、菜月は目を伏せたまま微笑んだ。
「うん、私も。あの時、あなたに会えてよかった」
静かな夜の中、窓の外では風が木々を揺らしていた。電灯の光が揺れ、まるで誰かがそっと覗いているような、不思議な安心感がそこにあった。
二人の間に言葉はもう要らなかった。
夫婦とは、「恋を超えていくもの」だと思う。
恋は燃えるけれど、燃え尽きもする。でも、信頼や安心は、少しずつ積み重ねるもので、燃えることはなく、消えることもない。
この暮らしの中で、また明日も、彼はコロッケを買って帰るのかもしれない。
些細な優しさが、明日の希望になる。
そうして、二人は――一人を超えて、生きてゆく。
原曲 星野源 恋




