その二十五 スミソニアン博物館
祭りの日、僕はどうやって家に帰り着いたか覚えていない。
気がつくと自室の椅子に腰かけ机に向かって涙を流していた。手元には少なくない涙の跡が残っており、突きつけられた現実に嗚咽を漏らしていた。
考えれば考えるほど、僕に何ができただろう、振られて、でも一緒に博物館巡りをして、共に文化祭の準備も本番も頑張って、展示は事件もあったけど評判になった。何ができただろう。
数日、ベッドから出ず、部屋にこもって過ごした。心配して様子を見に来る母親に返事も返さず、部屋の外に用意される食事ものどを通らなかった。
部屋のドアをドンドンと叩く音が響く。無視しているとがちゃがちゃと音がして鍵が外れてドアが開く。部屋の鍵は外から簡単に外せるようになっている。
「兄さんご飯。もう、いつまで引き篭もってるのよ。いい加減にしてよね」
妹の沙夜が部屋に入ってくるなり、僕のタオルケットを引きはがす。
「家の中が暗くて仕方ないでしょ。母さんは心配で顔色が悪いし」
「う、うるさい。僕にだって理由があるんだ」
僕はよほど酷い顔をしていたらしい。沙夜の声が柔らかくなる。
「どうしたの? 酷い顔だよ。なにがあったの、優しい妹が話を聞いてあげるよ」
こいつは自分の事を『優しい妹』と言った、日ごろは仲が悪いとも、良いとも言えず、余りかかわる事がないのに。
でも、誰かに聞いて欲しかった。訥々と祭りの日の事を話した。状況を説明するために、告白して振られた事も話した。
僕の椅子に座り、腕を組んだ沙夜が言い放つ。
「やっぱり、あんな綺麗な人が兄さんの彼女って変だと思ったんだ」
「うるさい。それは余計だ」
「うん、しかし、それは置いておいても酷い話だね。振るにしても、中途半端なままにして、それじゃあ兄さんも期待しちゃうよね。性格悪くない?」
「そんな事ない。捺稀さんはちょっと変わってるだけだ」
「へー振られて、傷つけられたのに庇うんだ」
向きになって、返事をする。こんな想いをしてもやっぱり僕は捺稀さんの事を好きなんだと自覚する。と共にほろりと涙が頬を伝わる。
「ちょっと、兄さん。そんなに好きなの?」
「うん、どうもそうらしい」
「……」
沙夜はしばらく考えていたが、立ち上がるとベッドに腰かける僕に歩き寄ると僕をその胸に掻き抱いた。
少し汗の匂いも混じるが頭の芯に響く良い匂いだ。妹を異性として意識した事はなかったので不意をつかれた。思ったより柔らかく豊かな胸に心臓がバクバクする。
「な、なに」
熱くなった身体にエアコンの風が気持ち良い。
沙夜は黙っていたが、ぽそりと呟く。
「兄さん。私は兄さんの味方だよ。兄さんが傷ついているのを見るのは嫌。幸せになって欲しい。さっきは、あんな事言ったけど、兄さんには彼女さんとうまくいってほしいの」
そう言って、僕の頭を撫でてくれる。気持ちが落ち着いてきた。
頭の中では何時か読んだ兄妹で仲良くするラノベのストーリーがちらつく。沙夜の事はそんな対象に考えた事もなかったのに、両腕を突き出し沙夜の背中に回しそうになる。
僕の頭の中を察した訳ではないだろう。
「ねえ、兄さん……」
自分の心の中を読まれたような気がしてびくっとして慌てて腕を下ろす。
「兄さんは、彼女さんの本当の気持ちを聞かなくてもいいの?」
「えっ……」
「その知らない人も、単に親しいだけの人かも知れないよ」
「でも、その割には親しげだったし…… それに約束があるし」
そいつが捺稀さんの耳元に顔を寄せる様が思い出され胸がキュッと締め付けられた。
「花火の音が煩かっただけかも。それに、兄さんの真摯な気持ちが通じないような人ならいっそ止めたほうが良いよ。そんな人諦めて新しい恋を始めたほうがずっと幸せになれると思うな」
僕の顔を見つめそう言ってニコッと笑った。意外だった、沙夜が、妹がこんなに可愛くなっていたなんて。ラノベの話を思い出して顔が赤くなってしまった。
「ありがとう、落ち着いた。そうだね、確認してみる」
沙夜の肩に手を添えて引きはがす。僕は弱い、これ以上接触していたら沙夜の優しさに甘えてしまう。
「そろそろ離れないと暑いよ。しかし、沙夜は思ったより胸あるんだな。うん、ありがとう」
「あー、兄さんのエッチ。残念でした。あたし、彼氏いるからね」
「ば、馬鹿野郎、こっちだってな。好きな人がいるのに、何変な事言ってるんだ。それより、お前汗臭いぞ」
照れ臭くて、汗の話題を出して話をうやむやにした。
「仕方ないよ、ちょっとコンビニまで行ってくるだけで汗ぐっしょりになるんだもん」
「落ち着いたら、お腹空いたな。晩ご飯なに?」
「生姜焼きとサラダ」
いつもより近づいた妹との距離感に心地よいものを感じてダイニングに向かった。
肝心の捺稀さんとは中々連絡がつかなかった。
会いたいと送ったメッセージはしばらく既読にならず、その後も返事が来るまでに時間が掛かった。会える事になったのは祭りから一週間後だった。
待ち合わせ場所の図書館に現れた捺稀さんはいつも通りだった。
薄いブラウンの髪はポニテに止められ空色のキャップの後ろから尻尾が出ている。黒縁眼鏡の奥の瞳にはいたずらっぽい光りが浮かび、モスグリーンのTシャツに白いパーカーを羽織っている。ボトムスはアイボリーのショートパンツから伸びる健康的な白い足が目を引く。斜め掛けされた薄茶色に黒縁の革製ポシェットの対比で白さが際立っていた。
「待った? 御免ね。色々と忙しくて全然時間が取れないんだよー」
久しぶりに見る捺稀さんの姿に、どぎまぎしてしまう。
「うん。五分ぐらい前だから、全然大丈夫」
会って話すのは二週間ぶりぐらいだろうか、祭りでの事もあり、なんだか距離を感じてしまっている。
今日は色々聞きたい事があるので、近くのファミレスに誘った。さすがに図書館で会話は憚られるでしょ。
もう何度も利用し勝手の判ったファミレスな事もありさっさと席を取って腰かける。昼食の時間帯は過ぎていたので、店内は閑散としている。夏休みの時期の所為か、平日にかかわらず、学生らしいグループがちらほらと見られた。
窓の外に目をやると、人々は真夏の強い日差しにそのままでは融けるのではとでも思っているのか建物の影を伝うように歩いていく。
強い光に照り返された店内は仄暗く気持ちが沈み込む、これからの話題を暗示するようでテーブルの下の拳に力を入れた。
向かいに座る捺稀さんの微笑みとのギャップに苛つきを覚えた。自分がこんなに苦しいのに暢気に微笑む捺稀さんに逆恨みだと判っているのに苛ち憎しみの念が湧いてきた。自分はなんて心の狭い人間なんだと自覚させられた。
祭りの日の事と、僕の事をどう思っているか聞く決心をしてきていたが、いざとなるとなかなか聞き出せないでいた。
「真仁くん、どうしたの顔色悪いよ。具合が悪いの」
さすがに、黙ったままの僕に違和感を感じたのか様子を窺ってくる。僕は心を決めぽそりと呟いた。
「この間、お祭りは結局ひとりで行ったんだ」
「ああ、わたしも行ったよ。神輿の行列が綺麗で、花火すごかったね」
捺稀さんが祭りに行っていた事を知っているのをおくびにも出ずに会話を続けた。
「結局、捺稀さんも行ったんだ。一緒に行けたら良かったのに」
「ごめんね。一緒に行けたら良かったんだけど、ちょっと、知り合いを案内するようにお母さんに頼まれていたの。そのせいだけでなく、いろいろと時間を取られて、もう予定はダダ狂いだよ。まったく、嫌になっちゃう」
ドキッとする。その人の事を聞こうとするが、聞き出す前に彼女は勢い良く話し出す。
「おかげで、真仁くんとも全然会えなくて、寂しかったよ」
そのひと言で、ぼくが捺稀さんに抱いていた恨みの念や不満感はきっぱりさっぱりと消え去って、嬉しさで満たされる。この『寂しい』はきっと友人的なものだ。でも言葉で聞くと嬉しい。聞こうと思っていた事がどうでもよくなってきて自分でもちょろいと思う。
表情が明るくなったのが自分でも判った。それに安心したのか、捺稀さんも饒舌になる。
「それでさあ、今度家族でワシントンDCに行く事になったの」
彼女が不穏な事を言い出す。また、しばらく会えない?
「家族旅行?」
祭りで捺稀さんと一緒にいた男の風体が脳裏に浮かぶ、遠かったので断言はできないが日本人ぽくなかった。ワシントンDCへの旅行はあの男は関係するのだろうかと疑問が浮かぶ。
「うん、そう、三週間ほど行ってくる。で、ワシントンDCだよ、ワシントン。これはスミソニアン博物館には行くしかないでしょ。わくわくするなぁ」
僕の目にも彼女の瞳に星と♡が飛びまくっているのが幻視できる勢いだった。
「ワシントンDCって、アメリカ合衆国だよねぇ」
「ワシントンDCはアメリカ合衆国の首都! でナショナル・モールという通りにスミソニアン博物館とか美術館とか沢山あって楽しみなんだ」
「え、ちょっと待って、三週間って言った?」
「うん、夏休み終わるまでには帰ってくるからお土産期待してていいよ」
盛り上がっている彼女を横目に僕の気分はダダ下がりだった。また、しばらく会えないのか。
「何時出発なの?」
「うーんとね。明後日だよ。お母さん急に決めるもんだから、準備でドタバタだよ。真仁くんご免ね、メッセージ気がついてたけど、返事なかなかできなくて」
「そんなに急なんだ。見送りに行くよ」
「そんな、いいよ。航空宇宙博物館でしょ、歴史博物館と自然史博物館は外せない。他にもあるし、三週間で回れるかな……」
どうも彼女はアメリカまで行って博物館しか回るつもりが無いらしい。らしいといえばらしいし僕の知っている捺稀さんと変わりがなくて、気になることはあっても安堵の気持ちが湧くのだった。
そんなこともあって、博物館巡りの予定にすっかり熱中して周りの目も気にせず、嬉しそうにスミソニアン博物館の蘊蓄を始める捺稀さんに、祭りの日の事を僕は聞く事ができなかった。




