第九話:月下の独り言
第九話:月下の独り言
宮廷の喧騒から遠く離れた、夜の下京。
雲一つない夜空に輝く満月が、貧しい藁ぶき屋根を青白く照らし出していた。
男は千鳥足でふらふらと歩き、ふと足を止めて月を見上げた。昼間に見た長屋の子供たちの笑顔、あるいは為蔵の必死な涙が、ふっと脳裏をよぎる。
男は懐に深く手を入れると、月に向かって、ぽつりと小さく呟いた。
「……あいつらも、あいつらの子供たちも。みんな飯が食えて、ただただ、無事でいてくれりゃあ、それでいいんだがな」
男が息を吐いたそのとき、すぐ近くにある古いお堂の影から、不穏な空気がにじみ出た。
――ベンベン、ベベン。
夜の闇を破り、重苦しい琵琶の音が響き渡る。そこに座り込んでいたのは、一人の放浪の琵琶法師であった。法師は虚空を睨み、激しい戦乱の唄を血の滲むような声で唸り始めた。
「……屍は野に満ち、川は血に染まりて、怨念の炎はいまなお消えず――」
ベン、ベン、と激しく撥が弦を叩く。
その唄が耳に入った瞬間、男の目がすっと冷ややかに細まった。
男の鼻腔に、かつて嫌というほど嗅いできた、あの忌まわしい戦の「血の匂い」がかすかに過った。復讐劇を繰り返せば幸せな日は来ない。男の最も嫌悪する世界が、そこにあった。
「おっと。長居しすぎると、お鈴ちゃんにまた怒られちまうな」
男は吐き捨てるようにそう言うと、最初から法師などそこには存在しないかのように、くるりと踵を返して歩き出した。
「――そこの御人」
背後から、琵琶の音を止めた法師が鋭く呼びかける。その気配に、切迫したものが籠もっていた。
だが、男は歩調を緩めることすらしない。ただの一度も顔を向けず、相手をまったく相手にしないまま、自らのツギハギだらけの広い背中だけを法師に晒している。
「興味ないね……」
男はあっけらかんとそう告げると、向けた背中のまま、頭の上で無造作に右手をひらひらと振ってみせた。
男はそのまま、夜霧の向こうへと遠ざかり、闇の中に消えていった。
静寂のなか、法師は撥を握ったまま、男の去った路地を凝視していた。
男の後ろ姿と、直前に耳にした素朴な呟きが、法師の胸に鋭く突き刺さる。
(私が唄うべきは、血を流し合う戦の物語などではない。このような平穏を願う心だったのではないか――)
法師は深く考えを改め、再び琵琶を抱え直した。今度は激しい音ではない。夜空の月へ溶けていくような、優しく、染み通るような調べを、ぽつり、ぽつりと奏で始めるのだった。




