第八話:型通りの歌、命の言葉
第八話:型通りの歌、命の言葉
内裏の一角、夜の帳がすっかり下りた御所の書物部屋は、さながら戦場の様相を呈していた。
『古今和歌集』の編纂という国家の大事業を任された紀貫之は、今、猛烈な絶望の淵に立たされていた。部屋の床から天井に届かんばかりに山積みにされているのは、全国の貴族や地方の役人たちから「我こそは」と寄せられた、膨大な数の和歌が記された紙や木簡の束である。
「不採用! これも不採用! ……ああ、どいつもこいつも、型通りでつまらんっ!」
貫之は髪をボサボサに乱し、目の下に濃いクマを作りながら、読んでは投げ、読んでは投げの乾いた音を部屋に響かせていた。墨で真っ黒になった手を額に当て、限界を迎えた編集長のように深く、深く嘆息する。
「春が来れば『梅の香りが〜』、秋が来れば『紅葉が散って寂しい〜』、恋をすれば『袖が涙で濡れる〜』! 決まりきった言葉を、まるで模範解答のように並べおって! 綺麗に整ってはいるが、そこには生きた人間の『心』がまるでない。これでは言葉の死骸の山ではないか!」
連日の徹夜作業に、選者である他の歌人たちも机に突っ伏して虫の息だ。宮廷の静寂の中で、貫之の苛立ちだけが熱を帯びて燻っていた。
そこへ、廊下からふわりと、贅沢な薫物の香りが漂ってきた。
引き戸が優雅に開け放たれ、現れたのは、烏帽子を粋に傾け、見るからに仕立てのいい直衣をまとった若き貴族であった。宮廷で毎夜のように女子を口説き回っていると評判の、いかにも光源氏を気取った風流な遊び人である。
遊び人は、部屋の惨状と、汗水垂らして泥臭く働く貫之たちの姿を見て、扇子で口元を隠しながら薄笑いを浮かべた。
「おやおや、紀殿。そんなに眉間に皺を寄せて書類を睨みつけていては、雅の神様が逃げてしまいますよ。やはり和歌というものは、もっと心に余裕を持ち、美しく紡がねば」
「……何用だ、貴公。見ての通り、私は今、極めて忙しい」
地を這うような貫之の声にも動じず、遊び人は懐から、上質な薄紅色の紙に流麗な運筆で書かれた一首を、自信満々に差し出した。
「私の最新作です。これほどの名作、古今集の巻頭を飾るにふさわしいと思い、特別に持ってきてあげました。まあ、一読してみるが良い」
貫之は忌々しげにその紙をひったくると、一瞥した。そこに書かれていたのは、いかにも宮廷の優雅人がひねり出しそうな、うわべだけの恋の歌であった。
『朝露に 濡るる我が袖 恋ひわびて 君が面影 夢に見るかな』
(朝露で私の袖が濡れるように、あなたに恋焦がれて涙しています。ああ、あなたの美しい面影が、夜な夜な夢にまで出てきてしまうよ)
一瞬の静寂が、部屋を支配した。
遊び人は「どうです、完璧でしょう」と言わんばかりに胸を張っている。
次の瞬間、貫之の手が、その薄紅色の紙をバチンと机に叩きつけた。
「――不採用だ! 疾く帰れ!!」
「な、何故ですか!?」
遊び人は跳び上がって狼狽した。「文字の並びも美しく、これぞ雅の極みでしょう!」
「形ばかりのどこが雅か!」
貫之の、芸術家としての怒りがついに爆発した。
「誰かが昔詠んだ古い言葉をツギハギし、女の気を引くためだけにこねくり回した、こんな中身の空っぽな歌など、古今集には一首たりともいらん! 貴公の歌には、泥を這ってでも生きようとする人間の『命』が微塵も入っておらぬわ! お前が流したというその涙は、一体どこにある! 乾いた袖で、恋だの夢だのと、おこがましい!」
「ひ、ひえっ……! 狂人め!」
貫之の凄まじい気迫に完全に圧された遊び人は、叩きつけられた紙を慌てて拾い上げると、香の匂いを撒き散らしながら、一目散に廊下へと逃げ去っていった。
「はぁ、はぁ……、全く、どいつもこいつも……」
肩で息をしながら、貫之はどさりと脇息にもたれかかった。
静まり返った部屋のなかで、貫之の手は、自然と机の引き出しの奥へと伸びていた。
そこから取り出したのは、数日前、下級役人の手を経て帝へともたらされた、あの下京のツギハギ小袖の男が書写したという和歌(みなかみの 清き流れを〜)の写しであった。
その紙を見つめる貫之の目が、知らず知らずのうちに潤んでいく。
「……私が求めているのは、小手先の器用な言葉ではない。名もなき民の祈りや、生きた叫びがそのまま形になったような、そんな言葉なのだ。それこそ、百年、千年の時を経ても、この国の土に残り続けるような……本物の言葉は、一体どこにあるのだ……」
山積みの凡作を前に、貫之はまだ見ぬ「究極の一首」への渇望を胸に、再び墨をすり始めるのだった。




