第七話:撃退の祝い酒
第七話:撃退の祝い酒
「……本当に、本当に助かった。井戸が、俺たちの命が繋がったんだ……!」
たぬき屋の店先で、為蔵は絞り出すような声でそう言うと、ボロボロと大粒の涙をこぼした。包丁を握り締めてお上に突っ込もうとしていたあの狂気は消え去り、今は一人の父親として、安堵のあまり机に額を擦りつけて泣いている。
「為さん、もういいんだ、終わったんだよ」
大家の老人も、熊ゴロも、お鈴も、皆が互いの無事を確かめ合うように涙を流し、笑い合っていた。悪徳役人どもから戻ってきた銭、あるいは大納言の屋敷から口封じとして届けられた極上の白米や地酒を前に、長屋は今、歓喜の坩堝と化している。
そんな中、お鈴は涙を拭うと、長屋の皆が少しずつ出し合って包んだ小裂の財布を手に、床机の端で相変わらずゴロ寝をしている男の元へ歩み寄った。
「旦那様。これは、長屋の皆からの心からの感謝の印……謝礼金だよ。お上に比べたらほんの雀の涙かもしれないけれど、どうか受け取って」
男は片目を開け、差し出された財布を眺めると、「おやおや」と頭を掻きながら起き上がった。
「これは重畳。だけど、俺のような風来坊にこんな大金を渡しちまっていいのかい? 気が変わって、夜逃げの路銀にしちまうかもしれないよ」
「逃げられるもんなら逃げてみなさいよ」
お鈴は呆れ顔で笑いながら、男の手のひらに無理やり財布を握らせた。男はそれをぽんと懐に放り込むと、「じゃあ、有り難く」とだけ言って、早速届けられたばかりの宮廷御用達の冷酒を美味そうに喉へ流し込んだ。
長屋の大人たちが涙を流し、地酒に酔いしれる夜は更けていく。だが、男の「悪巧み」の本番は、実はここからであった。
翌朝、下京の路地は、抜けるような青空に恵まれていた。
ゆうべの祝い酒で懐が温かくなったはずの男は、朝からふらりと姿を消していた。お鈴が買い出しのために市場へ向かって歩いていると、何やら大通りに面した駄菓子屋の前が、普段とは違う異常な熱気に包まれているのが見えた。
「おいおい、旦那、本当にこれ全部かい!?」
「ああ、そこにある麦手餅も、飴細工も、おこしも、芋けんぴも、店にあるお菓子、全部だ。ここにいる皆に分けてやっておくれ」
聞き覚えのある脳天気な声に、お鈴は思わず足を止めた。
人だかりの中心にいたのは、あのツギハギ小袖の男だった。男は懐から、ゆうべ長屋の皆が涙を流して集めてくれた謝礼金の財布を取り出すと、中身の銅銭を一切合切、駄菓子屋の番台へ豪快にぶちまけている。
「わあ、旦那ありがとう!」「お菓子だ、お菓子だ!」
集まってきた下京の貧しい子供たちが、目を輝かせて歓声をあげる。日頃、お上の不条理な取り立てに怯える親の背中を見て、息を潜めるように暮らしていた子供たちが、今は弾けるような笑顔を見せて、男の周りで飛び跳ねていた。
「いいってことよ。お前さんたちは、家の宝だからな。腹いっぱいお食べ」
男は子供たちの頭をくしゃくしゃとなでながら、けらけらと満足げに笑っている。
その姿を遠巻きに見ていたお鈴の胸に、ある古い教えが去来した。
子供は家の宝物であり、そして、国の本当の宝とは、金銀財宝の類ではなく、この泥に塗れて生きる民草とその子供たちそのものなのだ、という言葉。男の屈託のない笑顔を見ていると、その尊い優しさが、下京の路地の隅々にまで静かに染み渡っていくかのように感じられた。
――が、それはそれ、これはこれである。
「……あんたねえっ!!」
子供たちが両手にお菓子を抱えて解散した直後、背後から放たれたお鈴の鋭い大音声に、男は「おっと」と首をすくめた。
お鈴は両手を腰に当て、般若のような顔で男を睨みつけている。
「な、なんだいお鈴ちゃん。藪から棒に怖い顔をして」
「何が怖い顔よ! あんた、長屋のみんなが必死の思いで、涙を流して集めてくれた謝礼金を、たった一朝のうちに全部お菓子に変えちゃうなんて、一体どういうつもり!?」
「いやあ、銭ってのは天下の回り持ちって言うだろ?」
男は悪びれもせず、懐の軽くなった財布をひらひらと振ってみせた。
「悪党の偽りから毟り取ったあぶく銭だ、一番綺麗な形にして世間に返してやるのが筋ってもんさ。それにさ……親が流した涙の数より、子供が上げる笑いの数が多いほど、京の町も少しは明るくなると思わないかい?」
「っ……」
お鈴は二の句が継げなくなった。男の言うことはいつも通り、どこまでも自分勝手な屁理屈のようでいて、その実、誰よりもこの下京の命を愛おしんでいる本質を突いていたからだ。
「……もう、本当にしょうがない人だねえ!」
お鈴は大きくため息をつくと、回れ右をしてたぬき屋の方へと歩き出した。
「ほラ、帰るよ! 今日は店に残ったおこぼれの地酒、もう一杯だけタダでおごってあげるから。その代わり、今度こそ大人しくお昼寝しててよね!」
「おや、それは重畳、重畳」
男は嬉そうに目を細めると、お鈴の少し早い足取りを追うように、下京ののどかな陽だまりの中を、のんびりと歩き出した。




