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天下無敵の詠み人知らず  作者: 沢 一人
陽だまりのダメ人間、京の町にあり
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第六話:男の悪巧み撃退作戦

第六話:男の悪巧み撃退作戦

「お鈴ちゃん、仕事に来たよー」

縄のれんがひょいと撥ね上げられ、ツギハギ小袖の男がのんきな顔をして店に入ってきたのは、長屋の誰もが店先で天を仰ぎ、声を詰まらせていた、まさにその時であった。

だが、店内の尋常ならざる雰囲気を察すると、男はぴたりと足を止め、住人たちの表情をじろじろと見回した。

「おや、どうしたんだい。みんなして、お通夜みたいな顔をしてさ」

「旦那様! 大変なことになったんだよ!」

お鈴がすがりつくようにして、先ほど役人が床机に残していった御触れ書きを差し出した。男はそれをひょいと指先でつまみ上げると、夕暮れの光に透かして、じっと文字の並びを見つめた。

「……おいおい、こいつはとんだ傑作だね」

男はけらけらと場違いな笑い声を上げた。

「為さん、大家さん、よおく見てごらんよ。この御触れの本紙を書いたのは、宮廷でも指折りの能書家だ。文字の骨組みがしっかりしている。……だがね、この最後の『水銭五十文』という数行だけは、どうだい? 文字の腰が完全に抜けている。おまけに、本紙の墨はしっかりと紙の裏まで吸い込まれているのに、ここだけは墨の浮きが浅い。つまり、昨晩あたりに、内裏の落ちこぼれに小遣いでも握らせて、慌てて書き足させた偽物さ」

「えっ……偽物!?」

熊ゴロが目を丸くし、為蔵が勢いよく顔を上げた。

「じゃ、じゃあ、国経様のご命令じゃねえってことかい! よし、ならあの役人の面面(つらづら)を引きずり回して――」

「おっと、そいつはいけない」

男は人差し指を振って、為蔵をたしなめた。

「相手は小狡くとも、国経様の看板を背負っている。端端の小役人が勝手にやったことでも、こちらが力づくで騒げば『国経様への反逆』にすり替えられて、長屋ごと白州へ引っ立てられるのがオチさ。おや、私じゃ役不足かい。なら、町外れの庵におられる偏屈なご隠居のところへ行きな。あの人は元々、内裏の役人だったお方だ」

「ご隠居か……?」

大家がハッとしたように顔を上げた。

男は懐からさらりと一枚の反故紙(ほごがみ)を取り出すと、そこへ流麗な運筆で一首の和歌を書きつけ、大家の手へと握らせた。

「この歌と、その偽物の御触れ書きを一緒に持って、みんなでご隠居に泣きつくのさ。お上の法を汚す小役人を懲らすには、あの偏屈な老骨を動かすのが一番だからね」

大家と熊ゴロは、男に促されるまま、縋るような思いで町外れの庵へと走った。

庵で隠居生活を送る厳格な老人は、持ち込まれた御触れ書きの末尾を一目で見抜き、「やはりな。私利私欲のために朝廷の公文書を汚すとは、言語道断」と不快そうに顔を顰めた。しかし、男の書いた和歌を凝視した瞬間、老いた眼光が驚愕に鋭く見開かれた。

「……ほう。これは、凄まじい歌だな。よし、預かろう。この国風(くにぶり)の美しさを、悪巧みの道具に使う不届き者への罰だ。私が手を貸そう」

老人はすぐさま墨をすり、男の和歌だけでなく、持ち込まれたあの御触れ書きの文面もそのまま正確に隣へと書写した。公の命ではない「水銭五十文」という勝手な書き込みの証拠を、歌の背景として一枚の紙に克明に浮かび上がらせたのである。

◇

 数日後、内裏の一角。

『古今和歌集』の編纂に没頭していた紀貫之の元へ、ご隠居の手を経て、その書き写された、和歌と御触書がもたらされた。

机の上に広げられた一文と一首を目にした瞬間、貫之は息を呑み、そのまま彫像のように固まった。

五七五七七の限られた三十一文字の中に、下京の貧しき民草の血を吐くような純真と、それを踏みにじる見えざる悪意が、あまりにも鮮烈に織り込まれていたのである。隣に添えられた「井戸を使う者から一人頭五十文を徴収する」という御触れ書きの写しがあるからこそ、歌の意味はあまりにも痛烈に、かつ明確に貫之の胸を刺した。

みなかみの 清き流れを 仰ぎ見て

涙にむせぶ 水のひとしずく

(美しき水脈の源におられる高貴な国経様を、私たち民は遥かに仰ぎ見ております。そのお姿に深く感じ入り、お役に立ちたいと涙を流しながらなけなしの銭をかき集めましたが、どうしてもほんの少し足りません。なにとぞ、この赤誠のひとしずくをお納めいただき、私たちの至らなさをお許しください)

「なんという……なんという忠義にして、哀切なる歌か」

貫之の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

歌の表面は、国経への至高の崇拝と、銭が足りないことを詫びる謙虚さに満ちている。しかし、和歌の道を極めた貫之には、その奥にある文字の力が、下京の長屋で起きている「五十文」という不条理な搾取を告発していることが瞬時に理解できた。国経ほどの貴族が、民から一文二文の銭を涙ながらに巻き上げているという、痛烈な裏の意図が、言霊となって胸を刺す。

「これを、そのままにしてはおけぬ」

貫之は立ち上がり、しばらく思案した。一介の歌人である自分が、直接帝の御前に参じることは容易ではない。宮廷の複雑な手続きを踏めば、国経の息がかかった役人たちに握り潰される恐れもある。

だが、方法が一つあった。

勅撰和歌集の編纂所には、帝への定期的な進捗の報告書を、宮廷内の通常の文書回覧ルートに乗せて提出する慣例がある。貫之はその報告書の束の中に、この歌と御触れ書きの写しを、参考資料としてさりげなく紛れ込ませた。

直接帝に届けたわけではない。ただ正規の書類として回しただけのことだ。それが帝の目に触れるかどうかは、貫之の預かり知らぬことである。

しかしその夜、貫之は眠れなかった。

もし帝の目に触れれば、国経という巨大な権力を敵に回すことになる。あるいは、編纂の本分を離れた余計な口出しとして、お咎めを受けるかもしれない。貫之は何度も寝返りを打ちながら、己のしたことの重さを噛みしめていた。

その翌日。

内裏の奥深く、静まり返った御所に、醍醐天皇の穏やかな、しかし威厳に満ちた声が響き渡った。

「国経よ。此度、下京の民より、お前を深く慕う美しい歌が届いたぞ。……一読してみるが良い」

帝の御前から差し出されたその歌と、添えられた不審な過怠金の報告を、大納言・藤原国経は、何気なく受け取り、影を落とすように目を通した。

次の瞬間、国経の恰幅の良い身体が、目に見えて硬直した。

(な、なんだこれは……!? 麻呂を仰ぎ見て、銭が集まらず涙にむせぶだと!? しかも我が名の下に勝手な水銭の御触れが出ているとは!)

国経自身は、下京の小さな井戸から手下が小銭を巻き上げようとしていることなど、露ほども知らなかった。しかし、この歌と御触れが帝の目に触れた以上、世間は「国経は、民が涙を流してかき集めたわずかな小銭すら、公文書を偽造してまで貪り取ろうとするケチな強欲者だ」と見なすことになる。大貴族としての面目は、完全に丸潰れであった。

「……国経よ。民がこれほどお前を慕い、なけなしの銭を奉ろうとしているのだ。その赤誠(せきせい)、朕からも褒めて遣わす。よもや、これ以上民を困らせるようなことはせぬな?」

帝の静かなお言葉に、国経は背中に冷や汗をだくだくと流しながら、畳に額を擦りつけるしかなかった。

「は、ははっ……! 滅相もございません! 私のような者に、下京の水銭など一文も必要ございませぬ! すぐに……すぐに調べ直させまする! 職権を濫用した不届き者どもめ、必ずや厳罰に処してみせます!」

宮廷の最高層で、巨大な雷が落ちたその瞬間。

何も知らない下京の悪徳役人どもは、たぬき屋の井戸の前で、いよいよ銭の取り立てを開始しようと、意気揚々と集まりつつあった。

男の仕掛けた、泥棒の手口を逆手に取る罠が、当人たちのあずかり知らぬところで、容赦なくその歯車を回し始めていた。

「おい、たぬき屋! 期日だぞ!」

あの役人が、引き連れた家来とともに現れ、再び長屋の住人たちを集めた。男は懐に手を入れ、顎を傲然と突き出しながら、店外の床机を見下ろした。

「国経様への水銭、一人頭五十文、きっちりと用意できたろうな。払えぬ奴がいれば、今すぐその井戸に木蓋を打ち付け、役所の封印を施すまでだ!」

その怒号が響くやいなや、縄のれんの奥からお鈴を先頭に、大家の老人、大工の熊ゴロ、そして店の奥から恐る恐る顔を出した為蔵たちが、一斉に店先へと這い出てきた。彼らは旦那様の入れ知恵通り、これ以上ないほど困り果てた絶望の顔を作り、床机の前にがっくりと平伏した。

「お役人様、どうか、どうかお許しください……!」

大家が震える両手で、床机の板の上へ、小さな布切れを差し出した。中から現れたのは、わずか数枚の、雀の涙ほどのはした金である。

「急な御触れでございましたゆえ、長屋の皆で家財を売り払い、必死にかき集めましても、どうしてもこれだけしか間に合いませんでした。残りの分は、後日に必ず、必ずご用意いたします!」

「なんだと?」

役人は床机の上の小銭を一瞥し、鼻で冷酷に笑った。

「ふん、話にならん。国経様のお名前を何と心得ている。残りを今すぐ出せぬというなら、井戸は没収だ」

「そこを何とか、お頼み申し上げます!」

今度はお鈴が涙目を装い、役人の足元に縋り付くように声をあげた。

「命の井戸に蓋をされては、長屋の赤ん坊から年寄りまで、皆が干上がって死んでしまいます! どうか、あと三日……いえ、二日だけでもお待ちくださいませ! 必ずや、残りの銭を用立ててみせますから!」

「……ちっ、往生際の悪い虫ケラどもめ」

役人は、長屋の民草が自らの権威に完全に恐怖し、平伏しているのだと流石に疑わなかった。民が必死に銭を工面しようとする姿に、至極満足げな優越感を覚えた男は、ふんぞり返りながら言った。

「ならば、三日だけ待ってやる。国経様の慈悲だと思え。その代わり、三日後に一文でも足りねば、今度こそ長屋ごと叩き潰してやるからな!」

役人どもは、自らの首にすでに太い縄がかかっているとも知らず、自ら「猶予」という名の罠の時間を買って出て、意気揚々と路地の向こうへ去っていった。

その翌日。

大納言・藤原国経の広大な邸宅へ、呼び出しを受けたあの下級役人と家来が赴いていた。これは単なる定期の業務報告の呼び出しであり、二人は下京の連中を完全に脅しつけ、予定通り三日後には大金を二人で山分けにできると、ほくほく顔で内密の算段を交わしながらやってきたのである。国経の偽名を騙った着服の企みが、まさか発覚しているなどとは夢にも思っていなかった。

だが、通された広間の奥で彼らを待っていたのは、国経の、この世のものとは思えぬ形相であった。

「お前たちだな……っ!」

広間の畳が震えるほどの怒声が響き渡った。

「へ、へえ……? 国経様、一体いかがなされましたか……」

「黙れ、この愚か者どもが!」

国経は、帝から下賜されたあの和歌と、勝手に水銭五十文を書き加えた御触れ書きの写しを、二人の顔面へと叩きつけた。

「お前たちが我が名を騙り、下京の貧民から小銭を毟り取ろうとしたせいで、この国経の面目は朝廷内で完全に丸潰れとなったわ! 帝の御前で、朕が民の涙を絞り取る強欲者であるかのように歌を詠まれ、どれほどの恥辱を味わったか分かっておるのか!」

「な、和歌……!? 帝……!?」

役人と家来は、何が起きたのか全く理解できず、ただ叩きつけられた書類の写しを見て腰を抜かした。なぜ、下京の場末の長屋を脅し、自分たちだけで山分けするはずだった秘密の企てが、最高権力者である帝の手元に届いているのか。

「お上のお名前を汚した罪、到底許されん! お前たちのような不届き者は、即刻『お役御免』とする! さらに、これまでの家禄を没収し、大幅な減俸のうえ、厳しきお裁きを申し渡す!」

「そ、そんな! お許しください、国経様! 私どもはただ、少しばかりの銅銭を――」

「引き立ていっ!」

山分けの夢を見ていた悪党どもは、それ以上の大金を失い、お上の地位まで完全に剥ぎ取られ、泥を這うようにして連行されていった。当人たちの全くあずかり知らぬところで、文字の罠は完璧にその役目を果たしたのである。

数日後の夕暮れ時、下京のたぬき屋の店先は、前代未聞の大騒ぎに包まれていた。

悪徳役人たちが二度と姿を現さなくなっただけでなく、国経の屋敷の使者から、長屋へ「此度の不手際を内密にされたし」という表向きの口封じとして、長屋の面々が用立てていたわずかな銭がそのまま戻ってきたのである。そればかりか、机の上には、国経の銘が入った贅沢な白米や、宮廷御用達の極上の地酒が、山のように届けられていた。

「おいおい、本当に銭が戻ってきた上に、こんな上等な酒まで届いちまったぞ!」

熊ゴロが目を丸して一升瓶を掲げ、為蔵も「お上の役人が、本当に自滅しちまうなんてな……」と、未だに狐につままれたような顔で笑っている。

長屋の住人たちが「まさかこんな大逆転があるなんて!」と大喜びで酒盛りを始めるなか、当の旦那様は、相変わらず店先の床机をごろごろと独占し、手枕をして寝そべっていた。

「いやあ、お上のお偉方というのは、面目のためなら実に見事な大盤振る舞いをするねえ」

旦那様はひょいと起き上がると、脳天気にけらけらと場違いな笑い声を上げた。

「これほど上質な地酒、宮廷の連中だけに飲ませておくのはお天道様が許しちゃくれないのさ。お鈴ちゃん、せっかくだから、その冷えたやつを一杯頼むよ」

「旦那様、またそうやって他人の手柄でお酒をタダ飲みしようとして!」

お鈴は呆れ顔で腰に手を当てた。だが、その唇の端は、隠しきれずに少しだけ綻んでいる。

「でも、お父さんの包丁沙汰を止めて、井戸を守ってくれたのは……本当に、旦那様のおかげだね。ありがとう」

お鈴は、届けられたばかりの宮廷御用達の冷酒を、旦那様の差し出した器へ、心からの感謝を込めてなみなみと注いだ。

「おやおや、それは重畳でございますね」

旦那様はどこか他人事のように満足そうに目を細めると、極上の冷酒を美味そうに喉へ流し込んだ。その顔には、最高に悪戯っぽい微笑みが浮かんでいる。

茜色に染まる京の空を見上げながら、男は器を傾け、下京の平和な喧騒の中に、いつまでも身を置いていた。


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