第五話:不穏な御触れ
第五話:不穏な御触れ
藤原国経。
時の最高権力者である左大臣・藤原時平の叔父であり、朝廷の最高政務機関を司る大納言の地位にある大貴族である。彼がひとたび指を動かせば、下京の場末にある長屋など、跡形もなく消し飛ばすことなど造作もない。それほどの富と武力、そして帝の背後にある絶対的な威光を一身に背負った男であった。
その国経の広大な邸宅の裏手、下級役人たちの詰所では、二人の男が薄暗い灯火の下で、声を潜めて良からぬ談合にふけっていた。
国経の威光をカサに切る私属の家来と、宮廷の文書偽造に手を染める下級役人である。
「おい、今年も例年通り、夏前の水路掃除と井戸点検の御触れ(公文書)が出たぞ。地方からの税は米や絹の『物納』だからな、朝廷の帳簿をいじるのは命がけだ」
家来の言葉に、役人はにたりと口角を上げ、細い顎をさすった。
「分かっておりますとも。ならば、この公の御触れの末尾に、少しばかり『工夫』を書き加えましょう。国経様のお庭の池を維持するため、近くの地脈を流れる井戸水を使う長屋からは、不届きな過怠金として『銭』を取り立てる……とね」
それを聞いた家来は、己の頭を指先で小気味よく小突き、声を殺して身をよじった。
「ハハッ、お主、相変わらず頭が良いのう! 公の税とは別に、長屋の無学な民草から直接『銭』を巻き上げるわけか。それなら朝廷の帳簿に載ることもない. 国経様の名を出せば誰も逆らえんし、集まった銭は俺たちで半々だ」
「京の都で一番使い勝手が良いのは、やはり紐に通した銅銭ですからな。さあ、長屋の虫ケラどもを脅しに行こうぞ」
二人は邪悪な笑みを浮かべ、墨の乾ききらぬ一枚の御触れ書きを懐に収めた。
同じ日の午後、たぬき屋の店先へ、件の役人が傲然と現れた。男は店外の床机の前にドカッと立ち塞がると、懐から取り出した一枚の紙を、机の板へこれみよがしに恭しく広げて見せた。
「おい、たぬき屋! 長屋の主どもを集めろ。国経様からの厳しき御触れ書きだ!」
縄のれんの奥から顔を出し、手元を休めて呆気にとられるお鈴の前で、役人は顎を冷酷に突き出し、役人特有の慇懃無礼な態度で鼻で笑った。
「お上の文だ。一文字たりとも疎かにせず、神妙に読み合わせろよ」
役人は有無を言わせぬ冷ややかな大声を残し、懐に手を入れながら悠然と路地の向こうへ去っていった。
役人が去ったあと、店先は大騒ぎとなった。駆けつけた長屋を預かる初老の大家が、震える手で机の上の紙を広げ、墨の並びを追ううちにその顔を真っ青に染めていく。
「た、大変なことになった……。お鈴、これはただ事じゃねえ。今月からこの井戸を使う奴は、一人頭五十文の『水銭』を国経様に奉れ、と書いてある。もし払えぬ奴がいれば、即座に井戸に蓋をする……だとさ」
「五十文だって!? 大家さん、そいつは本当かい!」
店先へ駆けつけてきた大工の熊ゴロが、自慢の頑丈な腕をぶるぶると震わせて叫んだ。
「こちとら毎日、汗水垂らして一文、二文の銭をかき集めて生きてんだ。そんな大金、逆立ちしたって出てきやしねえよ!」
「お上の水をタダで泥棒させておくわけにはいかん、か……。水がなきゃ、長屋の全員が干上がっちまう」
長屋中が涙目で絶望に暮れるなか、たぬき屋の奥から縄のれんを激しく撥ね上げて飛び出してきたのは、主の為蔵であった。痩せて小柄なその手には、お馴染みの巨大な菜切り包丁が、怒りに震えながら握られている。
「冗談言っちゃいけねえ! 井戸に蓋をするってなら、この為蔵の包丁が黙っちゃいねえぞ! お上の役人が何だ、国経が何だ! 命の水を奪うってなら、刺し違えてやる!」
「お父さん、やめときな!」
驚いたお鈴が、後ろから為蔵の腰を必死で羽交い締めにした。
「離せ、お鈴! ここで黙ってたら、たぬき屋の酒も料理も作れなくなっちまうんだ!」
「相手は大貴族の家来だよ! 刃物なんか向けたら、お父さんだけじゃなく、長屋の全員が死罪になっちまう!」
熊ゴロも「為さん、落ち着いてくれ!」と必死で包丁を取り上げようとする。だが、国経という巨大な権力を前に、住人たちの誰もが、これが逃げ場のない絶体絶命のピンチであることを痛感していた。
「う、うう……ちくしょう、ちくしょう……!」
あんなに息巻いていた為蔵の身体から、急激に力が抜けていった。握りしめていた菜切り包丁が、床机の脇、地面の上一つ、むなしい音を立てて転がる。為蔵はその場にがっくりと膝を突き、両手で顔を覆った。指の隙間から覗くその顔は、悔しさと恐怖で歪み、今にも涙がこぼれ落ちそうであった。娘一人を抱え、下京の片隅で懸命に暖簾を守ってきた小柄な男にとって、お上の権威は、刃物を向けることすら許されぬ高すぎる壁だった。
たぬき屋の店先で、長屋の誰もが天を仰ぎ、声を詰まらせていた。




