第四話:タヌキの半分こ
第四話:タヌキの半分こ
初夏の匂いをはらんだ南風が、下京の路地を吹き抜けていく。
たぬき屋の店先には、日陰を求めて集まってきた近所の長屋の子供たちが、雀のように身を寄せ合って座り込んでいた。
その中心にいるのは、いつものツギハギだらけの小袖を着た男である。
男は床机の上に腰を下ろし、子供たちと同じ目線まで上体を落として、自ら筆を執って描いた数枚の反故紙を手にしていた。
「おじちゃん、次の一枚を見せてよ!」
「待ちなさい。お天道様が雲に隠れるうちは、物語も一休みさ」
男がそう言って子供の鼻先を優しくつつくと、子供たちは弾けたように笑った。その屈託のない笑顔を眺める男の目は、慈愛に満ちて優しく細められている。まるで、路傍の地蔵がふっと形を崩したかのような、穏やかな佇まいであった。
「さあ、雲が流れた。お話の続きといこうかね」
男がめくった紙には、二匹のタヌキが、一つの大きなおむすびを間に挟んで、牙を剥き合っている姿が墨黒々と描かれていた。
「山の奥でね、食いしん坊のタヌキと、これまたお腹をすかせたもう一匹のタヌキが、見事な白米のおむすびを一つ見つけた。二匹は言った。『これは俺のものだ』『いや、俺が先に見つけた』……さあ、どうなると思う?」
「取っ組み合いの喧嘩になるんだ!」
「ずる賢い方が、相手を騙して独り占めするんだよ!」
子供たちが口々に叫ぶ。
その賑やかな声を背中で聞きながら、店の奥で仕込みをしていた為蔵が、包丁の手を止めてお鈴に耳打ちした。
「おい、お鈴。旦那様ってえ人は、本当に子供に好かれるねえ。まるで、お寺の高徳なお坊様が、托鉢の途中で子供らと遊んでいるようじゃねえか」
「本当ねえ。いつもはあんなにだらしないのに、子供たちを見る目は、なんだか、お地蔵様みたいに透き通って見えるわ」
お鈴が感心したように呟く。
店先では、男が首を振って、次の絵をめくっていた。そこに描かれていたのは、血を流すタヌキでも、悔し泣きをするタヌキでもなかった。
丸いおむすびを、見事に真ん中から二つに割り、二匹が並んで美味そうに頬張っている、間抜けで、どこか愛らしい絵だった。
「いいや、喧嘩は起きなかったのさ。二匹のタヌキはね、しばらく睨み合ったあと、ふっと気がついた。『喧嘩をして怪我をしたら、痛くておむすびの味どころじゃなくなるぞ』ってね。だから二匹は、知恵を使っておむすびを綺麗に半分こにしたんだ。二つに分ければ、二匹ともお腹が膨れる。お互いに『美味いね』と笑い合って食べるおむすびは、一人で奪い合って食べるものの百倍も美味い。誰も傷つかない。誰も泣かない。それが、お天道様の下で一番賢いタヌキの知恵さ」
男の声音は、どこまでも穏やかで、水のように澄んでいた。
すると、一人の子供が不思議そうに首を傾げて、男の小袖を引っ張った。
「ねえ、おじちゃん。でも、誰も見てない山の中なら、こっそり相手を突き飛ばして、全部一人で食べちゃっても分かんないんじゃない?」
その問いに、男はいたずらっぽく頷き、どこか大人の淋しさを湛えた笑みを浮かべた。
「そうだねえ。人間もタヌキも、誰も見ていないと思うと、つい悪いことを考えてしまう生き物だからね。……だけどね、お天道様というのは、見ていないようで、見ているものさ」
「見ていないようで、見てる?」
「そうさ。空の上でぼんやり浮んでいるだけのように見えてね、お前さんが『誰も見ていないから、ちょいと意地悪をしてやろうか』と胸のなかで思ったその瞬間を、お天道様はちゃあんと、空から見届けにくる。悪いことをした後のご飯は、ちっとも美味しくないだろう? それはお天道様が見ているからさ」
子供たちは一瞬、神妙な顔をして空を見上げた。それから、男の優しい手つきに頭を撫でられると、またいつもの無邪気な笑顔に戻って、夕暮れの路地へと駆け去っていった。
「誰も、傷つかない……」
お鈴がその言葉を噛み締めるように呟き、店先へ一歩踏み出した。
「旦那様。お役人の悪巧みをいなした時も、私と熊のあの木札の時も……旦那様はいつも、そうやって誰も傷つかない道を選んできたのですね」
男は床机の上を片付けながら、お鈴の方を振り返り、照れくさそうに頭を掻いた。
「大層なことじゃありませんよ、お鈴ちゃん。私はね、ただの臆病者なのです。人が争う声も、誰かが流す血の匂いも、嫌いで仕方がありません」
男は立ち上がり、下京の空をゆっくりと仰ぎ見た。その横顔には、市井の喧騒を優しく包み込むような、底知れない奥深さがあった。
「力で誰かをねじ伏せれば、そこには必ず恨みが残る。悪巧みを悪意で返せば、ただ泥沼が広がるだけだ。……そういうことが、私は嫌なだけなんですよ」
為蔵は包丁を置き、男の背中をただじっと見つめていた。その眼差しには、この風来坊に対する、言葉にならない深い敬意が滲んでいた。
五月の終わりの柔らかな夕暮れ時。
たぬき屋の店先には、子供たちの笑い声の名残と、男の語った優しい知恵の余韻が、茜色の光の中に温かく溶けていくのだった。




