第三話:胃痛の巨匠と、下京の風
第三話:胃痛の巨匠と、下京の風
五月の風が吹き抜ける平安京の宮中、内裏の一角。
そこは、本来であれば雅な静寂が支配すべき空間であったが、この日に限っては、朝廷の面目を懸けた激務の渦中にあった。
「おい! 昨日の歌合の記録はどこへやった!」
「判りませぬ! 醍醐の上の御前から『まだ歌集はできぬのか』と重いお叱りがあったばかりぞ!」
「お上のご不快、万死に値する! 早く、早く貫之様をお呼びしろ!」
下級の役人たちが烏帽子を振り乱し、大量の巻物や書類をひっくり返して右往左往している。その喧々囂々(けんけんごうごう)たる政務の只中で、今にも吐きそうな顔で机にしがみつき、胃のあたりをぎゅっと押さえている男がいた。
彼こそが、時の帝から「最高の和歌集(古今和歌集)を編纂せよ」という勅命を下された男――紀貫之である。
「……無理だ。これ以上は、胃に穴が空く」
貫之は筆を放り出し、頭を抱えた。集まる歌は、どれもこれも形ばかりを気取った退屈なものばかり。
そこへ、かつて宮廷に仕えていた旧友の老人――あのご隠居が、役人たちの混乱をかき分けて、何やら興奮した様子で息を切らせて駆け込んできた。
「貫之! これを見よ!」
「……頼むから静かにしてくれ。頭に響く」
「それどころではない! これを見ろと言っておるのだ!」
ご隠居が机の上に突き出したのは、一枚の紙切れだった。お鈴が庵でヤキモキしている隙に、彼が必死で書き写した、あの木札の歌と筆跡の「写し」である。
貫之は、最初は死んだような目でそれを一瞥した。だが、次の瞬間、彼の目は信じられないものを見たかのように見開かれた。
『白妙の 衣手の水 きよければ 我が心をも 濁しつるかな』
貫之の全身に、文字通り雷が走った。
「な……なんだ、この歌は。いや、歌だけではない、この運筆は一体どうなっている!?」
「驚いたか。下京の民が持ち込んできたのだ」
「技巧などどこにもない。なのに、これほどまでに胸を激しく掻き乱す……。これぞ、私が探し求めていた真の言霊だ! 写しでこれなら、本物はどれほどか! 一体、誰が書いたのだ!?」
「さあな。下京の『たぬき屋』という居酒屋の娘が持っておった。主が誰かは分からん」
貫之は周りで大騒ぎしている役人たちを尻目に、机を叩いて立ち上がった。その顔からは、先ほどまでの胃痛の陰は完全に消え失せていた。
「お忍びの仕度をしろ! 私はその『たぬき屋』へ行く!」
同じ日の午後、下京の陽光は、たぬき屋の古びた店先を柔らかく炙り出していた。
昨日打ち付けられたあの「杉の木札」が、今は机の上に大切そうに据えられている。
お鈴は、いつもなら小気味よく動かすその手をふと止め、照れ隠しを絵に描いたような顔で、傍らの大男を睨みつけた。
「……何だい熊。いつまで突っ立ってるんだよ。仕事はどうしたんだい」
「おう。お鈴ちゃんの顔を見てたら、なんだか腰が抜けちまってよ。へへっ」
「バカ言っておくれよ……」
赤面してそっぽを向くお鈴の背後から、縄のれんが勢いよく撥ね上がる。飛び出してきたのは、店の主人であり、お鈴の父親の為蔵であった。痩せて小柄な、いかにも人の良さそうな男だが、その両手には巨大な菜切り包丁が、身の丈に合わぬ気迫とともに握られている。
「おい熊ァ! さっきから聞いてりゃあ、うちの箱入り娘に何てツラしてやがるんだ!」
「うわっ、為さん!」
熊ゴロが思わず巨躯を縮める。為蔵は包丁の切っ先を突きつけ、小柄な体を精一杯に張ってみせた。
「誰が為さんだ! 用もねえのに店先にへばりつくんじゃねえ、この大工崩れが! お鈴、お前もいつまで赤くなってんだ、仕込みをしな!」
「もう、お父さん、大きな声出さないでおくれよ!」
親子が言い合う様子を、床机の上でだらしなく寝転びながら眺めていた男が、深くため息をついた。
「あーあ。当てられちまって、風がちっとも涼しくねえや」
「うるさいねえ、旦那様は寝ておいでよ!」
お鈴がすかさず言葉を返す。男は苦笑いしながら頭を掻いた。
「冷たいねえ。せっかく二人の仲を取り持ってあげたというのに」
その時、店先の薄暗い日陰から、泥棒ヒゲのような変装を施した、ひどく薄汚い男がふらふらと這い出てきた。お忍びの身なりが裏目に出て、どう見ても怪しい不審者と化した紀貫之である。
貫之は机の木札へ真っ直ぐに這い寄ると、それを両手でひったくるように抱きかかえた。
「おおお! これだ! この墨の乗り、この力強いハネ! 間違いない、これぞ本物だ!」
「ちょっと! 何さあんた、泥棒かい!?」
お鈴が鋭く声をあげる。為蔵もまた、小柄な身体を熊ゴロの前に滑り込ませるようにして、包丁をギラリと構えた。
「おい、薄汚ねえヒゲ面だな。うちの店先に何の用だ。一歩でも動くとこの包丁が火を吹くぞ!」
「あ、いや、怪しい者ではない!」
貫之は大慌てで両手を振り、懐の胃薬をひと舐めしてから、精一杯に声を張り上げた。
「私はしがない歌詠みの端くれでね。このあたりに、天下無双の歌の達人がいると聞いてやってきたのだ。……この木札の文字は、一体どこの高貴な能書家が書いたのだね?」
その問いに、お鈴と熊ゴロ、そして為蔵は顔を見合わせ、それから床机の上で退屈そうにあくびをしている一文無しの男を、同時に指差した。
「……高貴かどうかは知らないけど、書いたのはその旦那様だよ」
貫之の視線が、昼間からゴロゴロしている男に向いた。男は薄目をあけ、いつもの軽妙な口調で、あっけらかんとこう言い放った。
「ああ、その木札ですか。それはね、大工の熊さんが惚れたお鈴ちゃんのために、俺がちょっと言葉を整えてやっただけですよ」
「な、何だと……? これほどの言霊を、ただの男女の惚気のために使ったというのか!?」
「ええ。宮廷の、あの……ええと、紀貫之だっけか? ああいう偉い人が詠む、小難しくて、お上品に気取った退屈な歌なんかより、よっぽどお天道様の下にはお似合いでしょう?」
本人を目の前にした、これ以上ない大暴言。
為蔵は「おう、旦那様、よく言った!」と小気味よく手を叩いたが、貫之は怒るのを通り越し、ショックのあまり白目を剥いた。
「……き、紀貫之の歌が、退屈……っ!?」
貫之は激しく胸を押さえ、その場に崩れ落ちた。
たぬき屋の店先に、巨匠の悲痛な呻き声と、いつもの心地よい五月の風が、ただ吹き抜けていくのだった。内裏の一角。
そこは、本来であれば雅な静寂が支配すべき空間であったが、この日に限っては、朝廷の面目を懸けた激務の渦中にあった。
「おい! 昨日の歌合の記録はどこへやった!」
「判りませぬ! 醍醐の上の御前から『まだ歌集はできぬのか』と重いお叱りがあったばかりぞ!」
「お上のご不快、万死に値する! 早く、早く貫之様をお呼びしろ!」
下級の役人たちが烏帽子を振り乱し、大量の巻物や書類をひっくり返して右往左往している。その喧々囂々(けんけんごうごう)たる政務の只中で、今にも吐きそうな顔で机にしがみつき、胃のあたりをぎゅっと押さえている男がいた。
彼こそが、時の帝から「最高の和歌集(古今和歌集)を編纂せよ」という勅命を下された男――紀貫之である。
「……無理だ。これ以上は、胃に穴が空く」
貫之は筆を放り出し、頭を抱えた。集まる歌は、どれもこれも形ばかりを気取った退屈なものばかり。
そこへ、かつて宮廷に仕えていた旧友の老人――あのご隠居が、役人たちの混乱をかき分けて、何やら興奮した様子で息を切らせて駆け込んできた。
「貫之! これを見よ!」
「……頼むから静かにしてくれ。頭に響く」
「それどころではない! これを見ろと言っておるのだ!」
ご隠居が机の上に突き出したのは、一枚の紙切れだった。お鈴が庵でヤキモキしている隙に、彼が必死で書き写した、あの木札の歌と筆跡の「写し」である。
貫之は、最初は死んだような目でそれを一瞥した。だが、次の瞬間、彼の目は信じられないものを見たかのように見開かれた。
『白妙の 衣手の水 きよければ 我が心をも 濁しつるかな』
貫之の全身に、文字通り雷が走った。
「な……なんだ、この歌は。いや、歌だけではない、この運筆は一体どうなっている!?」
「驚いたか。下京の民が持ち込んできたのだ」
「技巧などどこにもない。なのに、これほどまでに胸を激しく掻き乱す……。これぞ、私が探し求めていた真の言霊だ! 写しでこれなら、本物はどれほどか! 一体、誰が書いたのだ!?」
「さあな。下京の『たぬき屋』という居酒屋の娘が持っておった。主が誰かは分からん」
貫之は周りで大騒ぎしている役人たちを尻目に、机を叩いて立ち上がった。その顔からは、先ほどまでの胃痛の陰は完全に消え失せていた。
「お忍びの仕度をしろ! 私はその『たぬき屋』へ行く!」
同じ日の午後、下京の陽光は、たぬき屋の古びた店先を柔らかく炙り出していた。
昨日打ち付けられたあの「杉の木札」が、今は机の上に大切そうに据えられている。
お鈴は、いつもなら小気味よく動かすその手をふと止め、照れ隠しを絵に描いたような顔で、傍らの大男を睨みつけた。
「……何だい熊。いつまで突っ立ってるんだよ。仕事はどうしたんだい」
「おう。お鈴ちゃんの顔を見てたら、なんだか腰が抜けちまってよ。へへっ」
「バカ言っておくれよ……」
赤面してそっぽを向くお鈴の背後から、縄のれんが勢いよく撥ね上がる。飛び出してきたのは、店の主人であり、お鈴の父親の為蔵であった。痩せて小柄な、いかにも人の良さそうな男だが、その両手には巨大な菜切り包丁が、身の丈に合わぬ気迫とともに握られている。
「おい熊ァ! さっきから聞いてりゃあ、うちの箱入り娘に何てツラしてやがるんだ!」
「うわっ、為さん!」
熊ゴロが思わず巨躯を縮める。為蔵は包丁の切っ先を突きつけ、小柄な体を精一杯に張ってみせた。
「誰が為さんだ! 用もねえのに店先にへばりつくんじゃねえ、この大工崩れが! お鈴、お前もいつまで赤くなってんだ、仕込みをしな!」
「もう、お父さん、大きな声出さないでおくれよ!」
親子が言い合う様子を、床机の上でだらしなく寝転びながら眺めていた男が、深くため息をついた。
「あーあ。当てられちまって、風がちっとも涼しくねえや」
「うるさいねえ、旦那様は寝ておいでよ!」
お鈴がすかさず言葉を返す。男は苦笑いしながら頭を掻いた。
「冷たいねえ。せっかく二人の仲を取り持ってあげたというのに」
その時、店先の薄暗い日陰から、泥棒ヒゲのような変装を施した、ひどく薄汚い男がふらふらと這い出てきた。お忍びの身なりが裏目に出て、どう見ても怪しい不審者と化した紀貫之である。
貫之は机の木札へ真っ直ぐに這い寄ると、それを両手でひったくるように抱きかかえた。
「おおお! これだ! この墨の乗り、この力強いハネ! 間違いない、これぞ本物だ!」
「ちょっと! 何さあんた、泥棒かい!?」
お鈴が鋭く声をあげる。為蔵もまた、小柄な身体を熊ゴロの前に滑り込ませるようにして、包丁をギラリと構えた。
「おい、薄汚ねえヒゲ面だな。うちの店先に何の用だ。一歩でも動くとこの包丁が火を吹くぞ!」
「あ、いや、怪しい者ではない!」
貫之は大慌てで両手を振り、懐の胃薬をひと舐めしてから、精一杯に声を張り上げた。
「私はしがない歌詠みの端くれでね。このあたりに、天下無双の歌の達人がいると聞いてやってきたのだ。……この木札の文字は、一体どこの高貴な能書家が書いたのだね?」
その問いに、お鈴と熊ゴロ、そして為蔵は顔を見合わせ、それから床机の上で退屈そうにあくびをしている一文無しの男を、同時に指差した。
「……高貴かどうかは知らないけど、書いたのはその旦那様だよ」
貫之の視線が、昼間からゴロゴロしている男に向いた。男は薄目をあけ、いつもの軽妙な口調で、あっけらかんとこう言い放った。
「ああ、その木札ですか。それはね、大工の熊さんが惚れたお鈴ちゃんのために、俺がちょっと言葉を整えてやっただけですよ」
「な、何だと……? これほどの言霊を、ただの男女の惚気のために使ったというのか!?」
「ええ。宮廷の、あの……ええと、紀貫之だっけか? ああいう偉い人が詠む、小難しくて、お上品に気取った退屈な歌なんかより、よっぽどお天道様の下にはお似合いでしょう?」
本人を目の前にした、これ以上ない大暴言。
為蔵は「おう、旦那様、よく言った!」と小気味よく手を叩いたが、貫之は怒るのを通り越し、ショックのあまり白目を剥いた。
「……き、紀貫之の歌が、退屈……っ!?」
貫之は激しく胸を押さえ、その場に崩れ落ちた。
たぬき屋の店先に、巨匠の悲痛な呻き声と、いつもの心地よい五月の風が、ただ吹き抜けていくのだった。




