第二話:木札の調べ
第二話:木札の調べ
「……おや、熊さん」
下京の場末にあるボロ庵。床机の上で寝返りを打った男は、薄目をあけて枕元を見上げた。
「足があるのなら、せめて敷居をまたぐ時くらいは声をかけなさい。心臓が驚いて飛び出すかと思いましたよ」
いつもならドタバタと騒がしいはずの大工の熊ゴロが、この日に限っては幽霊のように音も無く庵へ忍び込んでいた。巨躯を小さく丸め、放ち衣の袖をぎゅっと握りしめて突っ立っている。顔は真っ赤で、目はうつろだ。
「旦那様……頼む。あっしの命を救うと思って、一筆、書いてくれ」
「おや、泥棒の告白ですか?」
「ち、違うやい!」
「では、検非違使への言い訳ですか?」
「いやっ」
「ん?」
「こっ恋文、……っ!」
男はむっくりと起き上がると、悪戯っぽい目付きを向けてみせた。
「恋文。それはまた、大層な大仕事ですね。お相手は?」
「たぬき屋のお鈴ちゃんだ」
「ほう」
「あいつが店先で暖簾を干す手元がよ、なんだか、こう……仏様みたいに綺麗なんだ」
「なるほど」
「それを見ちまってから、あっしの胸の奥が、毎朝トントン五月蝿く暴れやがる。だけどよ、あっしは字が書けねえ。何をどう伝えりゃいいかも分からねえんだ」
男の目が、ふっと涼しげに細められた。不器用な大工の胸の内にある、泥臭くも真っ直ぐな熱量。男は庵の隅から、熊ゴロが仕事で使うために持っていた、削りたての美しい杉の木札を引き寄せた。
すらすらと墨をすり、筆を執る。
「良いでしょう。ですが熊さん、紙に書いて渡したところで、お鈴ちゃんも文字が読めなければ、ただの敷紙にされておしまいです」
「えっ、じゃあどうすりゃいいんだい」
「彼女が毎日触るもの、毎日見るものに、文字を書き込んでしまいなさい。大工の腕の見せ所ですよ」
「なるほど、そいつは粋だ!」
「熊さんの言葉のまま、美しい調べに変えて差し上げます」
男の筆先が、木札の上に驚くべき速度で躍った。熊ゴロの口から出た「暖簾を干す手元の美しさ」と「胸の騒ぎ」が、まるで生きた水のように美しい五七五七七の五音に、墨黒々と刻まれていく。
「さあ、できました。これをたぬき屋の店先へ行って、黙って打ち付けてきなさい」
その半刻後。たぬき屋の店先である。
まだ開店前の静かな時間、一言も喋らない巨漢の大工が、汗だくで現れたかと思うと、店先の柱に、トントンと凄まじい勢いで木札を打ち付けた。
「何さ、熊! 不気味だねえ!」
奥から日除けの暖簾を持ったお鈴が飛び出してきて睨みつけるが、熊ゴロは「……これ、お前にだ!」とだけ蚊の鳴くような声で言い残し、脱兎のごとく逃げ去ってしまった。
残されたお鈴が不審に思って柱を見ると、新しく打ち付けられた木札に、見たこともないほど美しく力強い文字が書かれている。
「果たし状か?」首を傾げた。
「んっそれとも…。」
お鈴は何なのか分からず胸がざわついた。どうしても中身が知りたくて、道具を使って木札を無理やり引っこ抜くと、手ぬぐいの端切れに包んで懐に隠し、長屋の大家の元へと駆け込んだ。文字の読める大家なら、こっそり教えてくれるに違いないと思ったからだ。
「大家さん、いるかい!」
「おや、お鈴じゃないか。どうしたんだい、そんなに血相を変えて」
長屋の大家は、煙管の灰をトントンと叩きながら、お鈴のただならぬ様子を不思議そうに見つめた。お鈴は顔を真っ赤にしながら、何とか誤魔化そうと言葉をこねくり回す。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど……。もし、仮にだよ? 猪が夜中に長屋の畑を荒らしたとして、その猪の足跡が、なんだか奇妙に整った文字の形をしてたら、それってどういう意味だと思う?」
「なんだいそりゃ。猪が文字を書くわけなかろう」
「え?」
「ははあん、お前、誰かから文字の書いてあるものを貰ったね?」
「ち、違うよ!」
「訳ありの文だろう」
「猪の足跡だって言ってるだろ! 大家さんが読めないならいいよ!」
裾をぎゅっと握りしめて怒るお鈴に、大家は声を立てて笑った。
「おや、私じゃ役不足かい。なら、町外れの庵におられる偏屈なご隠居のところへ行きな。あの人は元々、お城(内裏)の役人だったお方だ」
「ご隠居が?」
「あの人なら、猪の足跡でもなんでも読み解いてくれるよ。わっはははぁ」
大家の笑い声を背に、お鈴は悔しそうに飛び出した。
お鈴は、長屋の連中に見つからないよう、町外れにある鬱蒼としたご隠居の庵の戸を叩いた。
「ご隠居、お頼み申します。ちょっと読んでほしいものがあるんだ」
出てきたのは、白髪混じりの、いかにも気難しそうな老人であった。
「ふん、文字も読めんのか、下京の民はこれだから困る」
老人は鼻で笑いながら、お鈴が差し出した杉の木札を受け取った。
ところが、木札の文字が老人の目に留まった瞬間、ご隠居の動きが完全に止まった。その目が、信じられないものを見たかのように点になる。
「な、なんだこの書は……!」
「え? 何か悪口でも書いてあるのかい?」
「去年の秋、内裏の歌会で、あの紀貫之様が絶賛された宮廷の能書家たちの文字……いや、それすらも遥かに凌駕しておる」
「ちょっとご隠居! 何て書いてあるのさ、早く教えてよ!」
ヤキモキするお鈴は、庵の床の板間を爪でガリガリと引っ掻いた。老人は手をもぎ取らんばかりの勢いで木札を握りしめ、震える声で読み上げた。
「……き、聴け。こう書いてある」
『白妙の 衣手の水 きよければ』
「……衣手の水?」お鈴が首を傾げる。
老人は涙ぐみながら、一音一音を噛み締めるように続けた。
『我が心をも 濁しつるかな』
「……どういう意味だい」
老人は深くため息をつき、木札を見つめた。
「お前が白い腕で暖簾を洗う水があまりに清らかで、それを見る俺の心は、恋しさに激しく掻き乱されてしまうのだ――という意味だ」
「え……」
「おお……技巧などどこにもない。なのに、まるで喉元を直接掴まれるような、この切なく、真っ直ぐな響きは……! これぞ真の言霊だ!」
「これは、素晴らしい、写しとこ……」
ご隠居の声を通してその言葉を耳にした瞬間、お鈴の脳裏に、あの汗だくで真っ赤な顔をして木札を打ち付けていた熊ゴロの姿が、鮮烈に浮かび上がった。
(あいつ、そんなこと思ってたのか……)
お鈴の顔は、みるみるうちに耳まで真っ赤に染まっていく。
「もういいよ! ありがと!」
お鈴はご隠居の手から木札をひったくるように奪い取ると、胸にぎゅっと抱きしめ、庵を走って飛び出していった。
翌朝の、たぬき屋の店先である。
いつもなら「おい、熊! 今日は仕事かい!」「おう、お鈴ちゃん、酒の仕込みかい!」と、威勢の良い声が飛び交う時間だった。
ところが、床机の上で寝転びながらその様子を窺っていた男は、極上の見ものに出会ったように目を細めた。
熊ゴロが、やはり音も無く、もじもじと店の前に現れた。
奥から暖簾を干しに出てきたお鈴は、熊ゴロの姿を認めた瞬間、ぴたりと動きを止めた。いつもなら真っ先に跳ね上がる「さっさとどいとくれ!」という威勢の良い声が、どこにも出てこない。
「あの、その……」
熊ゴロが、大きな頭を掻きながら地面を見つめる。
お鈴はいつもとすっかり調子が違ってしまい、突っぱねるような言葉も忘れて、ただおしとやかに俯いてしまった。
「木札、ありがと。……床机、直しといてくれたんだね」
蚊の鳴くような声で呟きながら、お鈴の頬は瞬く間に紅く染まっていく。被衣の裾を小さく指先でいじりながら、上目遣いにちらりと熊ゴロを見る目は、普段の気の強さが嘘のように潤んでいた。
「お、おう。……また悪くなったら、いつでも直してやるよ」
「うん。……あ、これ、今朝の一番良い地酒。持ってきなよ」
手渡す酒の手桶が、二人の手の間で小さく揺れている。熊ゴロもまた顔を真っ赤にしてそれを受け取り、互いにそれ以上言葉も交わせぬまま、ただ微笑み合っていた。
「おやおや、それは重畳でございますね」
床机の上の男は、どこか他人事のように微笑みながら、二人の間からこっそり掠め取った冷酒を美味そうに喉へ流し込んでいた。その顔には、市井の不器用な恋を裏から手助けした、最高の悪戯っぽさが浮かんでいる。
言葉というものは、これほどまでに人の心を動かすものらしい。
男は満足そうに目を細め、茜色に染まる京の空を見上げるのだった。




