第十話:文字の種
第十話:文字の種
五月の風が吹き抜ける昼下がり、たぬき屋の店先では、男が長屋の子供たちに囲まれていた。
男の手元には反故紙が数枚。筆でさらさらと描いているのは、タヌキやら狐やら、妙に愛嬌のある動物の絵である。
「おじちゃん、次はウサギ!」
「俺は龍がいい!」
子供たちが口々に叫ぶ。男は「はいはい」とあくびをしながら、驚くほど達者な筆さばきで次々と描いていく。その手つきの鮮やかさに、子供たちは目を丸くして声を上げた。
「すごい! おじちゃん、絵も描けるんだ!」
「字も上手いし、絵も上手いし、なんで毎日ゴロ寝ばかりしてるんだよ!」
「それが一番難しいんだよ」と男は大真面目な顔で答え、子供たちをまた笑わせた。
その様子を、店の奥で仕込みをしながら眺めていたお鈴が、ふと手を止めた。
「旦那様。あんた、本当に惚れ惚れするような絵と字を書くねえ。それだけの腕があるなら、お上で立派な役人にでもなれば、毎日白いご飯が食べられるだろうに。なんでこんな長屋でゴロ寝ばかりしてるんだい?」
子供たちも一斉に男を見た。
男は筆を置き、遠い空を見つめるように、ぽつりと語り始めた。
「昔、そのお役所の中でな、毎日毎日、文字を書いていたことがあったのさ」
お鈴の手が止まる。男の横顔から、いつもの軽薄さが消えていた。
「だけどあそこは、文字のために人が死ぬ場所だ。この村から米を全部毟り取れ、逆らう奴は打ち首にしろ、兵を集めて戦を始めろ……。俺が書いた文字のために、多くの人が泣いて、血が流れた。俺の最も嫌いな血の匂いが、あの場所には満ち満ちていたのさ」
縁側に静寂が落ちた。子供たちも、珍しく黙って男の横顔を見つめていた。
男は小さく息を吐くと、すぐにいつもの飄々とした顔に戻り、手を頭の後ろで組んだ。
「だからさ、嫌気がさしちまったんだ。文字ってのは本来、人を脅すためのもんじゃねえ。飯が美味いとか、あいつに会えて嬉しいとか、長屋の奴らが笑うために使われてりゃ、それでいいのさ」
しばらくの間があった。
それを破ったのは、太助だった。
「なあ、旦那様」
太助は少し改まった顔をして、男の前に座り直した。
「この前、役人がお触れ書きを持ってきた時、俺には何が書いてあるか全然分からなかった。大家さんが読んでくれなかったら、長屋のみんな騙されたままだったろう。……悔しかったんだ。だから、俺に文字を教えてくれないか」
「俺もだ!」
「私も教えてほしい!」
他の子供たちも次々と声を上げた。
男はその顔を一人一人眺め回してから、深くため息をついた。
「おいおい、俺のゴロ寝の時間が減っちまうな」
それから、にやりと笑った。
「……まあいい。明日からここで塾を開いてやる。読み書きと算ばんだ。泥んこ小僧ども、覚悟しておけよ」
「わーい!」
歓声が上がり、子供たちが飛び跳ねる。お鈴も奥から「まったく、しょうがない人だねえ」と笑いながら顔を出した。
「文字のために血が流れた過去を持つ男が、今、民の笑顔のために新しい筆を握ろうとしていた。」




