第十一話:もっともらしい罠
第十一話:もっともらしい罠
民部省(税を司る役所)の暗い一室で、一人の若い役人が先輩から巻物を手渡されていた。
「いいか、民を立ち退かせる時に、力尽くで脅すのは下策だ。彼らには『美味い未来』を見せてやるのさ。それが、国経様のご主導する新たな大通り計画を、円滑に進めるための仕組みだよ」
良心の残る若者は最初こそ戸惑ったが、それが国の発展のため、そして自らの出世のためだと教え込まれ、次第にその冷徹なシステムに染まっていった。
数日後の夕刻、下町のたぬき屋に、その若き役人たちが慇懃無礼な態度で乗り込んできた。長屋の住人たちが警戒して集まるなか、役人は声を荒らげることもなく、極めて穏やかな口調で語り始めた。
「皆様、おめでとうございます。このたび、国経様のご高配により、この下町に京で最も大きな大通りが作られることに決定いたしました。これは皆様の暮らしを劇的に豊かにする、素晴らしい計画でございます」
役人は、文字の読めない長屋の連中に向けて、もっともらしい言葉を並べ立てていく。
「例えば、たぬき屋のご主人。ここに大通りが出来て、多くの人が行き交えば、こんなちっぽけな店があっという間に立派な大棚(大きなお店)になります。お鈴様も、毎日白いご飯がお腹いっぱい食べられますよ」
お鈴が「えっ……」と目を丸くする。役人はニヤリと笑み、次は大工の熊ゴロに向き直った。
「さらに、この計画で税が集まれば、近くの大きな寺の修繕が始まります。そうなれば、大工の皆様は大儲かりだ。仕事が溢れて、毎日が祭り騒ぎになります。お上は、皆様の未来のために、この然るべき手続き(立ち退き書類)をご用意したのです。さあ、こちらに同意の手形を押してください」
ヤクザな脅しは一切ない。提示されたのは、あまりにもきらびやかな成功の物語であった。
「へえ……。ここに大通りができれば、俺たち大儲けできるのかい?」
「お上が、俺たちのためにそんな良いことを考えてくれてるなんて……」
長屋の連中は、すっかりその気にさせられていた。これでお金持ちになれる、家も立派になると、誰もが疑うことなく喜び、次々と書類に手を伸ばそうとする。お鈴までもが、その甘い言葉に身体をこわばらせていた。
それこそが、お上の仕掛けた、逃れられぬ底なしの罠であった。
「――おいおい、相変わらず綺麗な文字で行儀よく、人を奈落に突き落とす書類を書いてやがるな」
人々の歓声の隙間から、低く乾いた声が響いた。
男が懐から手を抜くと、役人の手からひらりと公文書をひったくった。
「な、何をする。無学な平民が……」
若き役人が眉をひそめる前で、男は書類の裏を氷のように冷ややかに見据えた。
「大通りができて店が大棚になる? 寺の修繕で大工が大儲け? 実に見事な綺麗事だ。だが、この書類の端っこに小さく書かれた『特例の地税免除』の文字はなんだ? 大通り沿いの土地はすべて国経様の私受地となり、新しく建つ大棚からあがる儲けは、一文残らず国経様の懐に入る、という罠じゃねえか」
男の言葉に、長屋の連中がハッと息を呑んだ。
「寺の修繕も同じだ。身内の息がかかったお抱えの職人だけを使い、長屋の大工は一文の銭ももらえず、ただ働きで駆り出される。……お前さんの言う『美味い話』の本当の意味は、ここにいる奴らを文字で躍らせ、住む場所を奪い、用が済んだら路頭に迷わせて餓死させる、という恐ろしい罠さ」
男は書類を役人の胸に押し付けた。
「昔、俺もその筆を転がしてな。文字を組み合わせれば、どんな理不尽でも『もっともらしい正論』に化けさせられると知っている。……これを仕上げて、宮中での点数が上がって鼻が高いな、若旦那。だが、俺の大嫌いな血の匂いが、その紙切れからはプンプン漂っているぜ」
裏のからくりを完全に暴かれ、一瞬、若き役人の顔が屈辱でピクリと引き攣った。
しかし、役人はすぐに冷徹な笑みを張り付かせ、さも知らぬ風を装って、衣服の埃を払うように息を吐いた。
「――なるほど。これでは皆様がお困りになるのも無理はありません。お上といたしましても、民に涙を流させるような不備は本意ではないのです」
役人は少しも声を荒らげず、どこまでも慇懃に、もっともらしい弁明を並べ始める。
「より良い京を築くため、この一件は一度お役所に持ち帰り、別部署に臨時の吟味所を立ち上げ、有識の役人たちを交えて慎重に話し合うことといたしましょう。皆様の貴重なご意見を反映させるべく、改めて調査を重ねて参ります。……では、本日はこれにて」
男の鋭い追及を、まるで水のようにさらりとかわしてみせる。話し合い、精査する、という大義名分のもとで、決定を先送りにして煙に巻く。それこそが、この時代の、そしてお上の最も老獪な言い逃れのやり方であった。
巻物を懐に収めた役人たちは、最後まで優雅な足取りで、長屋をあとにしていった。
あとに残された長屋の住人たちは、狐につままれたような顔で立ち尽くしている。お上が「話し合ってくれる」という言葉に、どこか安堵したような空気さえ漂っていた。
ただ一人、男だけが、去っていく役人たちの背中を険しい目で見つめていた。
「吟味所で話し合う」などというのは、ただの時間稼ぎの罠に過ぎない。文字の読めない民を、今度は言葉の霧の中に迷い込かせ、じわじわと外堀を埋めていく算段なのだ。
男は静まり返った店先で、ぽつりと拳を握りしめた。文字という圧倒的な権力に守られたお上を相手に、この下町を守るには、こちらも文字の力で立ち向かうしかない。明日から始まる子供たちの小さな塾の灯りが、男の脳裏に、かつてないほど重く、そして強く浮かび上がっていた。




