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天下無敵の詠み人知らず  作者: 沢 一人
文字は民の笑顔のために
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第十二話:撰歌所のせめぎ合い

第十二話:撰歌所のせめぎ合い

 宮廷の一角に設けられた撰歌所(うたどころ)の空気は、重く張り詰めていた。

机の上には、全国から集められた名もなき民や下級貴族たちの歌が、気が遠くなるほどの数の短冊となって積み上がっている。

選者の中で最年長である紀友則(きのとものり)は、その温和な顔立ちに似合わず、歌の選定においては誰よりも厳しかった。

友則はかつてこう詠んだ。

『ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ』

こんなにも日の光が穏やかな春の日なのに、桜の花はどうして落ち着きなく散っていくのだろう――。

穏やかな春の日と、絶えず散りゆく桜との対比。本来なら静かで安らかな春の日なのに、桜だけはせわしなく散っていく。その様子に優しく問いかけることで、桜の美しさと、そのはかなさを見事に表現した歌である。友則の歌風は、こうした繊細でやわらかな情感を特徴としていた。

だからこそ、友則の目は誤魔化しがきかなかった。形だけを整えた歌には、どれほど巧みに飾り立てても、命の息吹が宿っていないことを、友則は瞬時に見抜いてしまうのだ。


「――では、次の歌にまいりましょう。躬恒(みつね)どの、いかがか」

最年長である紀友則の促しに、凡河内躬恒が手元の巻物に目を落とす。

「これはいけません。言葉の飾りばかりが目立ち、心が籠もっておりぬ。――『不(✕)』で」

「左様。では、その隣にある東国の防人(さきもり)の歌は?」

「これは粗削りですが、胸を突く真情がある。……『可(〇)』にいたします」

「待たれよ。この言葉の使い回しは、いささか古風に過ぎぬか? 『中(△)』にして、一度保留といたそう」

選者たる寄人(よりうど)たちは、短冊の横に「可(〇)」「不(✕)」「中(△)」の墨点を入れながら、時に熱く、時に冷徹に意見を戦わせていた。

その輪の中心で、若き紀貫之は生真面目な顔で筆を握り、膨大な歌の精査に胃を痛めていた。彼らの基準はただ一つ。「人の心を揺さぶる本物の歌かどうか」である。

そこへ、藤原氏の息がかかった上役の公卿が、衣を衣擦れさせてのそりと部屋に入ってきた。寄人たちが居住まいを正すなか、上役は声を荒らげることもなく、極めて穏やかな口調で机の上の短冊を見下ろした。

「選考は順調かな、貫之どの」

「はっ。皆で忌憚(きたん)なき意見を交わし、真に優れた歌を『可(〇)』として残しております」

貫之が恭しく答えると、上役はフッと慇懃な笑みを浮かべた。

「結構なことだ。だがね、貫之どの。この勅撰集は我が国の威信をかけた大事業。今の朝廷を支える中心たるお方々、すなわち藤原氏の御一門の歌が相応の数だけ入らねば、画竜点睛を欠くというものだ」

上役は、すでに『不(✕)』と弾かれた藤原氏の凡作の山を、扇の要でツンツンと突いた。

「これをすべて『可(〇)』に引き上げなさい。何、簡単なことだ。そこに並んでいる、名もなき平民たちのくだらぬ恋歌を少し削り、我が藤原氏の歌に差し替えればよいのだ。これぞ大局的な見地というものである」

それは暴力的な脅しではなく、お上の体面という、もっともらしい大義名分を盾にした、逃げ場のない慇懃な脅迫であった。下町を潰そうとする役人たちの罠と、全く同じ歪んだ仕組みが、この雅な歌の聖域にまで押し寄せていた。

「しかし……これらは形ばかりの拙い歌でございます。このようなことをしては、勅撰集の格が……」

貫之が消え入りそうな声で反論するが、上役は冷徹な目のまま、貫之の言葉をぴしゃりとはねのけた。

「歌の格を決めるのは、お上(藤原氏)だ。無名な民がいくら泣こうが、お上の点数にはならんのだよ。君も若くして選者に抜擢されたのだ、早くこの『仕組み』を覚えなさい。それが宮中での生き残り方だ」

冷酷な言葉を残し、上役は優雅に去っていった。

静まり返った部屋のなかで、貫之は一人、机に突っ伏して頭を抱え込んだ。

その胸のなかは、お上への恐怖と情けない言い訳でウジウジと埋め尽くされていく。

(ああ、どうすればいいのだ。お上に逆らえば、私の首など一吹きで飛ぶ。明日から私の机だけ撰歌所から片付けられているかもしれない。いや、それどころか地方の寂しい役職に左遷されて、毎日泥をすすることになるやもしれん。ああ、恐ろしい、お上は本当に恐ろしい……)

「……困った、実に困ったぞ……」

ぶつぶつと情けない生唾を飲み込みながら、貫之は手元の短冊を何度も裏返した。

藤原氏からねじ込まれた歌は、どれも権力に阿(おもね)るだけの、退屈で死んだ文字の羅列。逆に、削れと言われた民の歌のなかにこそ、生きる喜びや悲しみ、本物の心の笑顔が息づいている。

ここで自分が日和って、お上の出世や点数のために歌をねじ曲げてしまえば、文字が、歌が死んでしまう。百年後、二百年後の人間がこの本を開いたとき、『なんだ、藤原の太鼓持ちたちが集めた退屈な本か』と笑われるのは、絶対に嫌であった。

「――よし」

貫之は泣きそうな顔のまま、ぎりりと奥歯を噛み締めた。

「私はやるぞ。後世まで残る優秀な作品を、何が何でも選び抜いてみせる」

小さく震える手で、それでいて揺るぎない意志を込めて、貫之は民の歌の横に「可(〇)」の墨点をぽんと打った。

文字の罠を使ってすべてを支配しようとする藤原氏の影に対し、宮廷の若き天才もまた、情けなくも美しい芸術の良心を燃やし始めていた。


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