第十三話:命がけの墨痕
第十三話:命がけの墨痕
昼下がりのたぬき屋の店先には、いつになく重苦しい空気が漂っていた。
いつもなら縁側に寝転がって欠伸ばかりしている男が、今日ばかりは違っていた。板間にどっしりと胡座をかき、太い腕をきつく組んだまま、微動だにせず考え込んでいる。その目は険しく、眉間には深い皺が刻まれていた。
お鈴がそっと近づいてお茶を置いても、男は視線すら動かさない。ただじっと、組み合わされた自らの拳を見つめ、お上という巨大な壁を切り崩すための策略を、頭の中で幾重にも組み立て、検証していた。
(あの役人ども、こちらの出方を見て『吟味所で話し合う』などと言い逃れやがったな……。あれはただの時間稼ぎだ。文字で民の目を眩ませ、外堀を埋めてから一気に踏み潰す算段に違いねえ。ならば、お上が文字の罠を仕掛けてくる前に、こちらからその仕組みの裏をかく、特大の楔を打ち込んでやるまでだ)
男がこれほどまでに腰を据えて物事を考えている姿を、お鈴は初めて見た。そのただならぬ気迫に、お鈴は声をかけることすらできず、息を呑んで引き下がるしかなかった。下町を守るための、男の本気の戦いが、すでにこの昼下がりから始まっていた。
陽が落ち、夜の闇がすっかり京の街を包み込む頃、男はようやく腕を解き、鋭い目をらんらんと輝かせた。
「――お鈴ちゃん、すまねえが油をもう少し注ぎ足してくれ。手元が暗い」
男の低く引き締まった声に、お鈴は弾かれたように頷いた。
奥部屋には、いつもと違う濃密な墨の匂いが満ちていく。男は着物の袖をたすきで固く縛り、机の前に端座した。
役人が掲げていた国経の計画書。男はその端々に並んでいた文字、墨の濃淡、数々の公印、そして藤原国経の署名と花押の形を、昼間のうちにすべて頭の中で完璧に繋ぎ合わせ、記憶の底に定着させていた。
男は筆を執ると、一晩をかけて古い紙に向かった。
迷いのない筆致で、役所特有の独特な崩し字が次々と写し取られていく。かすれの一本、線の太さのわずかな狂いすら許されない大博打。偽文書の作成はお上の法では極刑にあたる。だが、男の横顔に怯えはなかった。民の笑顔を踏みにじるお上の武器を、その同じ武器で叩き潰す。ただその執念だけが、夜の闇の中で激しく燃えていた。
夜が明ける頃、男は一本の息を深く吐き、筆を置いた。
机の上には、国経の署名が入った、本物と寸分違わぬ「もう一枚の命令書」が、黒々と妖しい光を放ちながら乾き始めていた。
「……できた。だが、これを役人の前に突きつける前に、まずは試さなきゃならねえ」
男は疲れた目をこすりながら、お鈴にその巻物を手渡した。
「町外れの庵におられる、あの偏屈なご隠居に見せてきてくれ。元は内裏に仕える役人だったお方だ。文字の目利きとしては、これ以上の人間は京にそうはいねえ」
お鈴はかつて大家から聞いた言葉を思い出しながら、胸の鼓動を抑えて巻物を懐に忍ばせ、町外れの庵へと走った。
「ご隠居、ちょっとこれを見ておくれよ。店先に落ちていたんだけど、何が書いてあるんだい?」
お鈴が差し出した巻物を、偏屈で鳴らす白髪のご隠居は、ひどく怪訝そうな顔で受け取った。
「なんだいこれは?」
ご隠居は、丁寧にそれを見ると、光の当たる窓際で巻物を広げた。
お鈴は、ご隠居が文字を追う指先を、生唾を飲み込みながらじっと見つめていた。もし、元役人の鋭い目で少しでも怪しまれれば、お上を騙す計画など露と消える。
ご隠居は何度も何度も首を傾げ、墨の掠れや、お上の印の形を凝視していた。やがて、ご隠居は深く息を吐き、畏れ多いものを見るように巻物をそっと畳んだ。
「お鈴……これはとんでもない代物じゃ。紛れもなく、民部省の、それも藤原国経様が直々に判を捺された本物の公文書じゃ。ここには、下町の大通り計画を一時凍結し、民の立ち退きを免除すると書かれておる。宮中にいた私だからこそ解るが、これほど公に格式高い、見事な文字を偽れる者などこの世におらん。一体、これをどこで……」
文字と書類を知り尽くした元役人の目が、完全に騙されている。
お鈴は胸の中で「勝てる!」と激しく拳を握りしめた。男の腕は、お上の仕組みを完全に凌駕していたのだ。
「あ、ありがと、ご隠居! 勘違いだったみたいだから、これ、お上に返しておくよ!」
お鈴は巻物をひったくるようにして、たぬき屋へと全速力で駆け戻った。
店先で待っていた男に、お鈴は満面の笑みで大きく頷いてみせた。
「あんた、お役所にいたあのご隠居の目は完全に誤魔化せたよ! 本物だって、これほどの字を書ける御方は他にいないって、太鼓判を押してくれたも同前だ!」
男はその言葉を聞くと、いつもの飄々とした、脳天気な笑みをその顔に蘇らせた。
「そうかい。なら、お墨付きは十分だ。……よし、これならいける。お上の書いた綺麗な罠に、こいつを盛大に放り込んでやろうじゃねえか」
男は偽文書を懐に深く差し込み、ニヤリと不敵に笑った。
だが、その笑みは長くは続かなかった。ふいに表情を引き締めると、再び腕を組み、ゆっくりと天井を見上げる。
(……いや、これだけじゃ足りねえ。もう一つ、あいつらの度肝を抜く仕掛けが要るな)
男の瞳に、再び知略の光が宿った。
文字という巨大な壁を相手に、下町の反撃がいよいよ始まろうとしていた。




