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天下無敵の詠み人知らず  作者: 沢 一人
大御宝を慈しむ
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第三十七話:もぬけの殻のメッセージ

第三十七話:もぬけの殻のメッセージ

 下京の一角にある蕎麦屋「たぬき屋」の店内は、昼下がりだというのに異様な熱気に包まれていた。

「ない! どこを探してもないんだよ!」

 お鈴は厨房の棚の隅々まで手を突っ込み、半ば悲鳴のような声をあげた。その横では、主の為蔵が額に大汗をかきながら、蕎麦粉の樽をひっくり返さんばかりに中を覗き込んでいる。

「おっかしいな……あの旦那が、俺の生前葬の時に書いてくれた、あのものすごい和歌の紙。確かに、ここに大切にしまっておいたはずなんだが」

 近所の熊ゴロも、床板の隙間を覗き込みながら、大きな頭を掻いた。

「おいおい、為さん、お鈴ちゃん。まさか、あの物騒なまでに美しい歌が書かれた紙を、誰かに盗まれたんじゃねえだろうな」

 その言葉に、その場にいた一同の動きがぴたりと止まった。

「我が君は、なんて切り出す、とんでもねえ和歌だぞ」

 為蔵は包丁を握る手を震わせ、声を潜めた。

「もし、知らぬ誰か、そうだ役人にでも見つかったら大変だ。そうなったら、知らぬ存ぜぬと嘘をつくしかあるめえな」

 為蔵は一同を見回し、低く鋭い声で言った。

「よし、口裏を合わせるぞ。もしお役人があの歌のことで乗り込んできたらな……」

「どう言うんだい、お父さん!」

 お鈴が身を乗り出す。為蔵はぐっと拳を握りしめた。

「あの紙は、どこぞの偉い歌詠みが詠んだ歌さ。それをあの風来坊の旦那が、何故か覚えてて面白がって書き写しただけだ。そう言い張るんだ!」

「なるほど!」

 熊ゴロが膝を叩く。

「あの旦那が自分で作った歌じゃねえ、ただの落書きだ、ってわけだな!」

「そうだ。あいつはただの字が書けるだけの風来坊だと言い通すんだ。いいな!」

 一同が固唾を呑んで頷いた、まさにその瞬間だった。

 縄のれんが勢いよく撥ね上がり、三人の男たちが泥を撥ね散らしながら飛び込んできた。

「すまない! たぬき屋の主人はおられるか!」

 息を切らせて叫んだのは、かつて泥棒ヒゲの変装で店を訪れた、あの男――本来の立派な公服をまとった紀貫之であった。その後ろには、同じく息をのむ凡河内躬恒と、鋭い視線を走らせる壬生忠岑が控えている。

 あまりの頃合いの良さに、為蔵とお鈴は心臓が口から飛び出そうになるのを必死に堪え、互いに目配せを交わした。

(来たぞ、お上の追っ手だ……!)

 為蔵は、以前出会った変装の男が宮廷の立派な役人であったことに驚きつつも、即座に心を決め、愛想笑いを顔に張り付けた。

「へ、へえ! あっしがここの主人でごぜえますが……お役人様がた、こんな泥臭い店に一体何の御用で?」

 貫之は懐から、宮廷の庭に舞い降りた、あのくしゃくしゃの油紙を差し出した。

「この紙に見覚えはないか! これは、この店の包み紙に違いないな。そして、ここに書かれた和歌……これを詠み、書いたお方は、まだこの店にいるのか!」

 お鈴は、差し出された紙が自分たちの探していた「あの生前葬の紙」であることを一目で見抜いた。誰かが宮廷へ投げ入れたのだ。

 彼女は背中に冷や汗が流れるのを感じながら、大袈裟に首を横に振った。

「と、とんでもない! 確かにうちの包み紙ですけれど、そんな大層な歌、うちの店には関係ありませんよ! 文字なんて、誰かがどこかで落とした紙を拾って、いたずらに書き写しただけじゃないですか?」

「嘘を言うな!」

 貫之は一歩身を乗り出した。

「私は以前、この店先で恋歌、あの規格外の言霊を操るお方を目にしている! あの墨の走り、この強烈な筆跡、あの時の旦那の筆跡に違いないはずだ!」

「お、お役人さん、人違いですよ!」

 為蔵はしどろもどろになりながら、必死に手を振った。

「あの旦那は、毎日酒ばかり飲んでゴロゴロしていた、ただの身元の分からねえ風来坊です! 和歌なんて高尚なもの、詠めるはずがねえじゃありませんか。そんなに疑うなら、あの旦那が暮らしていた裏手の庵を見てくだせえ! 本当に、何もありゃしねえんですから!」

 為蔵は、空っぽの庵を見せれば、役人たちも「ただの貧乏な風来坊の戯れ言だった」と納得して諦めて帰ってくれるだろうと考え、自ら裏手を指し示した。

「……庵があるのだな」

 忠岑が、為蔵の焦りを見逃さず、冷ややかな声で呟いた。

「貫之、行ってみましょう。事実はその部屋が語るはずです」

「おい、行くぞ!」

 躬恒が貫之の背中を押し、三人はたぬき屋の裏手へと急いだ。

 古ぼけた庵の前に立ち、貫之は深く息を吸い込んだ。この扉の向こうに、自分が追い求めた謎の答えがある。

 彼は意を決すると、両手でその扉を力任せに押し開いた。

 傾いた木の扉が、乾いた音を立てて開いた。

 差し込んだ初夏の光が、誰もいない部屋の床を白々と照らし出す。

 そこには机も、布団も、生活の匂いを残す調度品も、何一つ残されていなかった。ただ、使い古された小さな硯(すずり)が、床の隅にぽつんと転がっているだけだった。男は本当に、着の身着のままこの京の町を去っていったのだ。

 諦めきれない紀貫之は、埃の舞う部屋の奥へと進み、薄暗い壁の前に立ち止まった。その瞬間、彼の息が止まった。

「躬恒殿、忠岑殿……これを見てください」

土壁の真ん中に、煤(すす)を混ぜたような墨汁で、大きな文字が殴り書きされていた。


『みんな, 元気でな!』


 太く、豪快で、いささかの迷いも濁りもない、天を突くような運筆。

 貫之は懐から、あのくしゃくしゃの油紙を取り出し、壁の文字の横に並べた。

 油紙に書かれた、宮廷を揺るがした至高の和歌。そして、この壁に書き残された、あまりにも奔放な別れの言葉。

 二つの文字の「跳ね」と「うねり」は、まるで同じ墨壺から溢れ出たかのように、完全に一致していた。

「……やはり、そうだ」

 貫之は、壁の前に立ち尽くした。

「あの蕎麦屋の主人は『旦那は字が書けるだけの風来坊で、和歌など詠めるはずがない』と言った。だが、この壁の文字を見なさい。これほど凄まじい言霊の力を文字に込められる男が、あの和歌をただ『面白がって書き写しただけ』であるはずがない。……あの長屋の人々は、この男を必死に守ろうとしていたのだな」

「ええ、そのようですね」

 凡河内躬恒が、腕を組んで文字を見上げながら、感慨深げに言葉を添えた。

「役人の我々が血相を変えて乗り込んできたというのに、あの主たちときたら、怯えるどころか必死に話をはぐらかそうとしていた。この七文字を見れば、その理由も分かります。これほど温かく、とことん粋な文字を残して消える男だ。長屋の面々が、お上の追っ手から命懸けで庇いたくなるのも無理はありません」

「ですが、貫之」

 壬生忠岑が歩み寄り、壁の文字を鋭い目で凝視した。

「この筆跡の奥底にある骨組み……どこかで、我々のよく知る、あの失踪した男の面影を感じませんか」

 貫之は、はっと胸を突かれた。

 壁に残された文字の重心の置き方、筆の巡らせ方。それは、正しく失踪した紀友則の筆法を思わせる、洗練された知識の片鱗が見え隠れしていた。

(――いや、まさか)

 貫之の脳裏に、激しい葛藤が突き抜けた。

(あの強烈な出会いから、すでにそれなりの時が流れている。だが、どうしても重ならない。

あの店先で見た男は、すべてを圧倒する風のような気配をまとっていた。私の記憶にある従兄は、どこまでも繊細で優美な男だ)

 二つの姿が、頭の中で激しくぶつかり合う。

 近親者だからこそ、かえって記憶の確信が曖昧に揺らいでいくのだった。

 本当に、あの男は友則だったのだろうか。時が経ち、己の記憶が都合よく彼の面影を重ね合わせているだけなのか。それとも、友則の魂とどこかで響き合った、全く別の何者かだったのか。考えれば考えるほど、自らの記憶の輪郭さえもが霧の中に溶けていくようだった。

 長屋の誰もがその真の素性を知らず、ただ旦那と呼んで慕い続けた男。

 手がかりはこの壁の文字だけであり、男の正体は、深く、濃い霧の向こう側に包まれたまま、決して明かされることはない。ただ、あの店先で見た、途方もなく大きな背中の記憶だけが、貫之の心に鮮烈に、深く刻み込まれていた。

「……正体など、もう、霧の彼方で良いのかもしれません」

 貫之は深く息を吸い込み、油紙をそっと懐に収めた。その顔から、ようやく迷いが消えていった。

「この歌の主が、私のよく知るあの人なのか、あるいは名もなき風来坊なのか、それは誰にも分からない。ならば、真実を暴き立てる必要などどこにありましょう。お天道様の下で自由に生きたあのお方は、きっと、名前などという窮屈な箱に縛られることを、最も嫌うはずです」

 忠岑が、貫之の言葉に首を縦に振り、口元を緩めた。

「なるほど。理屈を捨てて、ただ美しさを取るのですね。選者として、最も正しい選択です」

「よし、決まりだな」

 躬恒が貫之の肩をぽんと叩いた。

「じゃあ、この歌の扱いはどうするんだ、貫之」

 貫之は、誰もいない庵の窓から差し込む初夏の光を見つめ、力強く宣言した。

「この歌は、作者の姓名を空欄にします。ただ一言、――『よみ人しらず』として、古今和歌集の、賀歌の筆頭に、誇り高く飾るのです。これほどの至高の言霊が、どこの誰とも分からぬ民の心から生まれたという形にすることこそが、あの男への最高の贈り物になるはずです」

 三人は、壁に残された豪快な置き土産に向かって深く一礼すると、庵を後にした。

 夕暮れが迫る京の街を、三人の選者は並んで歩いていた。編纂所に戻れば、また山のような公文書と、右大臣家からの容赦のない催促が待っている。しかし、貫之の胸の胃痛は、いつの間にか綺麗に消え去っていた。

 誰のものでもない、だからこそ、すべての民の心に永遠に寄り添い続ける真の言霊。

 その響きと、霧の向こうに消えた大きな背中を胸に、貫之は前を向いて歩き続けるのだった。


     第三十八話へ続く

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