第三十六話:守られた包み紙
第三十六話:守られた包み紙
男が下町の民に見送られて京の町を去ってから、数日が過ぎていた頃。
道端で偶然あの包み紙を拾い上げた旅の楽人は、宿の狭い一室で、独り頭を抱えていた。
机の上に広げられた油染みの紙には、凄まじい気迫の墨文字で、三十一文字が刻まれている。
これほどの和歌を、ただの旅芸人に過ぎない自分が懐に持っていて良いはずがない。もしお上の目に留まれば、不敬の罪に問われるのではないかという恐怖が、波のように押し寄せてくる。かと言って、この魂を揺さぶるような美しい歌を、燃やし捨てることなど、歌を愛する者として絶対に出来なかった。
「どうすればいい……どう処置すれば、この歌を殺さずに済むのだ」
楽人は幾日も眠れぬ夜を過ごし、迷いあぐねた。そうして悩み抜いた果てに、ある行動に至る。
「和歌の真価が分かる者たちの元へ密かに送れば良い。誰が持ち込んだか分からなくしてしまえば、己が罪に問われることもあるまい」
彼は油紙を折り込み、鋭い翼を持つ紙の鳥を作り上げた。そして意を決すると、宮廷を囲む高い土塀の陰へと忍び寄った。
周囲を盗み見て人影がないことを確かめると、紙の鳥を天に向けて力任せに放り投げた。
鳥が塀の向こうへと消えたのを見届けると、楽人は振り返ることもなく、脱兎のごとくその場を立ち去った。
初夏の爽やかな風に乗った紙の鳥(紙飛行機)は、青空に美しく弧を描き、宮廷の広大な庭へと優雅に舞い降りていく。
その庭では、きらびやかな装束をまとった三人の貴族たちが、車座になって蹴鞠に興じていた。
「あり」「や」「おう」
小気味よい掛け声とともに、白革の鞠が新緑の梢へ向かって高く、まっすぐに蹴り上げられる。鹿皮の靴が芝生を鳴らし、彼らは額に汗を浮かべながら、いかに美しく鞠を滞空させるかという雅な勝負に没頭していた。
その最中、空からひらひらと奇妙な形の物体が落ちてきた。
それは、鞠を受け止めようと身構えていた一人の貴族の冠にぽんと当たり、そのまま足元へと頼りなく落ちた。
「おや、何だこれは。鳥か?」
冠を直しながら、その貴族が地面のそれを見つめて眉をひそめた。残る二人の貴族も動きを止め、顔を見合わせながら歩み寄ってくる。
「いや、鳥ではないな。紙で折られた細工物のようだ。しかし、ずいぶんと汚れているな。油の染みのようなものが浮いているぞ」
三人は顔を見合わせ、怪訝そうな表情で地面の紙を覗き込んだ。
一人が屈み込み、汚れないように指先で慎重にその羽を広げていく。くしゃくしゃになった紙が広がると、そこには墨黒々と文字が並んでいた。
「ううむ、何やら歌らしきものが書かれているようだが……文字の勢いが強すぎて、いささか上品さに欠けるな」
「そもそも我らは、こうして健やかに身体を動かす遊びの方が、よほど楽しい。机にへばりついて和歌の細かな善し悪しを値踏みするなど、気が滅入るというものだ」
広げた紙を見つめながら、貴族たちは面倒そうに鼻を鳴らした。
「これの処置はどうする」
「決まっている。あそこの選者どもの元へ届けてしまえ。文字の好きな奴らに鑑定させるが良い」
油染みの紙は貴族の手から下役へと渡され、そのまま古今和歌集の編纂所へと届けられた。
古今和歌集の編纂所の空気は、今日も今日とてどんよりと澱んでいた。
「ああ、もう嫌だ。右大臣家からの注文がまた増えたぞ。曰く、もっと雅で、もっと理屈の通った、小綺麗な歌を集めろとさ。宮廷の顔色ばかり伺う歌を選んで何が面白いんだろう」
凡河内躬恒が、机に突っ伏して盛大にため息を漏らす。その横で、生真面目な壬生忠岑が淡々と筆を動かしながら、冷ややかに応じた。
「仕方がありませんよ、躬恒殿。それが我ら選者に課されたお役目です。理路整然とした美こそが、今の都の流行なのですから」
二人のやり取りを余所に、筆頭選者の紀貫之は、何も言わずに己の胃のあたりを押さえていた。
彼の視線は、部屋の隅にある「四つ目の机」へと向いている。そこは、数ヶ月前に忽然と消息を絶った年長の従兄であり、同じ選者の一人でもあった紀友則の席だった。
主を失った机には、薄く埃が積もっている。 飄々として宮廷の窮屈さを嫌い、民の生き様や古い昔話を愛しんでいた友則の背中を思い出し、貫之は胸の奥で、やるせのない寂しさを募らせていた。
そこへ、下役の男が恐る恐る部屋に入ってきた。その手には、先ほど庭の貴族たちから押し付けられた、くしゃくしゃの油紙が握られている。
「あの、貫之様。庭で蹴鞠をされていた上座の方々から、これを鑑定せよとの仰せでございます。空から降ってきた不審な紙だそうで……」
「また厄介事を押し付けられたか」
躬恒が顔をしかめる。貫之は黙ってそれを受け取り、机の上に広げた。
油が染み、破れかけた粗末な紙。下町の安物でも包んでいたのだろうか。だが、そこに書かれた文字を目にした瞬間、貫之の指先がぴたりと止まった。
――我が君は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで
「……っ!?」
歌を口にした瞬間、貫之の全身に、雷に打たれたような激しい鳥肌が立った。言葉の奥から溢れ出す圧倒的な光の言霊が、彼の細い身体を激しく震わせる。
ただごとではない貫之の様子に気づき、忠岑が覗き込み、躬恒も勢いよく身を起こした。三人は、机の上の紙を凝視したまま、完全に言葉を失った。
しばらくの静寂の後、理屈屋の忠岑が、震える声でその歌の構造を分析し始めた。
「な、何ですかこれは……。『我が君は』という 極めて単純な切り出しでありながら、続く『千代に八千代に』という永劫の時間への広がりが、恐ろしいほどの重量感を持って迫ってくる。さらに『さざれ石のいわおとなりて』という、小さな石が巨岩へと成長するという奇抜な対比。これは、言葉の理屈を超えた、天地を揺るがすような規格外の言霊です」
「いや、それだけではない」
躬恒が油紙の端を指差した。
「この文字の勢いを見てみろ。宮廷の手習いで 教わるような、すました筆跡ではないぞ。まるで大地を踏みしめて歩く者が、己の魂をそのまま叩きつけたような、荒々しくも美しい筆の走りだ。こんなただ者ではない真似、都の軟弱な歌人どもにできるはずがない」
三人の知性が、一枚のゴミ紙を前にして狂ったように回転し始める。これは単なる落とし物ではない。既存の宮廷和歌の概念を根底から覆す、恐るべき傑作であった。
「……一体、誰がこれを詠んだのだ」
躬恒の呟きに、忠岑が首を振る。
「分かりません。どこを探しても名が記されていない。『よみ人知らず』です。しかし、この歌風、この規格外の器の大きさ、どこかで……」
その時、貫之の目は、再びあの埃の積もった四つ目の机へと吸い寄せられていた。
脳裏に、失踪直前の友則の姿が鮮烈に蘇る。友則は宮廷の選者でありながら、いつも「和歌の原点は、理屈ではなく、民の息遣いの中にこそある」と言っていた。周囲から変わり者と笑われても、彼は窮屈な冠など放り投げて、お天道様の下をのんきに歩くことこそが何よりの贅沢だと笑っていたのだ。
(宮廷のしがらみを全て笑い飛ばすような、この地平の果てまで届く歌風。そして、このどこか懐かしい、全てを包み込むような筆の癖……まさか、友則の兄さんなのか……?)
貫之の胸の中で、点と点が一気に繋がり始めていた。兄さんは死んだのではない。宮廷を捨て、民の暮らしの中に飛び込み、そこでこの究極の歌を生み出したのではないか。
「友則殿の失踪直前の和歌は、確かに民の言葉へ回帰していました」
忠岑が、貫之の視線の意味に気づき、ハッと息を呑む。
「あいつなら、あるいは……」
躬恒も声を低くした。
「宮廷の選者という肩書きを放り出して、都のどこかでこんな恐ろしい歌を詠んでいたとでも言うのか」
「確証は、まだない」
貫之は油紙を両手で大切に抱え、立ち上がった。その瞳には、いつもの気鬱な影は消え失せ、激しい探偵魂と、消えた兄を慕う思慕の情熱が、消えない炎となって点火していた。
「出所は完全に不明だ。誰がどこから宮廷へ投げ入れたかも分からん。だが、和歌の言霊は嘘をつかない。この歌が生まれた場所が、この京の町のどこかにあるはずだ」
「探すつもりですか、貫之」
忠岑の問いに、貫之は力強く頷いた。
「ああ。この油染みの紙が、どこで使われていたものか、都の隅々まで調べ上げる。これこそが、私が生涯をかけて探していた、真の和歌の姿だ。友則の兄さん、あなたに心を奪われたこの歌の真実を、私は必ず突き止めてみせる」
主を失った四つ目の机の向こうで、初夏の風が窓を揺らした。正体不明の作者を追う、宮廷三人衆の執念の探索が、ここから始まろうとしていた。
第三十七話へ続く




