第三十五話:庵の危機と、不敵な夜逃げ
第三十五話:庵の危機と、不敵な夜逃げ
為蔵の病が奇跡的な回復を見せてから、さらに数週間が経った頃。下町の活気を根こそぎ引き裂くような、不穏な足音が男の庵へと迫っていた。
初夏の強い日差しが照りつける昼下がり、長屋の路地に、場違いなほどに威圧的な一団が現れた。長い棒を手にし、尊大な態度で歩くのは、検非違使の配下にある下級の役人どもであった。
「おい、この庵の主はどこにおる!」
先頭に立つ男が、乱暴に男の庵の戸を叩き割らんばかりに殴りつけた。その怒号に驚き、たぬき屋の店先からお鈴が飛び出し、長屋の住人たちも何事かと集まってくる。
庵の奥から、いつも通り頭を掻きながら飄々(ひょうひょう)と姿を現した男は、役人どもの殺気立った様子を見ても、眉一つ動かさなかった。
「へえ、これはこれは。お役人様方が揃って、こんなむさ苦しい場所に何の御用で?」
役人は懐から一枚の公文書を取り出し、男の目の前に突きつけた。
「お上の命である。この土地一帯は、近く宮廷の直轄地として召し上げることに決まった。よって、この庵に住まう身元不明の不審者は、直ちに立ち退かねばならん」
その理屈に合わない宣告に、周囲で見守っていた長屋の面々から一斉に怒りの声が上がった。
「冗談じゃねえや! ここは何年も前からこの旦那が使っている場所だ!」
熊ゴロが太い腕を振り上げて叫べば、大家の源兵衛も必死に前に出る。
「お役人様、どうかお聞き届けを。このお方は長屋の誰にも迷惑をかけず、それどころか皆を助けてくださる尊いお方でございます。立ち退けなどと、あまりに横暴な……」
役人どもは民の訴えを鼻で笑い、乱暴に六角の棒で地面を突いた。
「黙れ、下衆ども! お上の決定に逆らう者は、即座に捕縛して牢へ叩き込むぞ!」
それは、国経が放った最後の、影のように執拗な嫌がらせであった。
医者を使った陰謀が男の言霊によって打ち破られたと知った国経は、もはや手段を選ばなかった。権力の力を笠に着て、男の生活の拠点を根こそぎ奪い去り、下町の民から引き離すことで、その存在をこの京の町から完全に抹消しようと企んだのだ。
役人どもは男の庵の周囲を取り囲み、威嚇するように武器を構えた。
「猶予は今宵限りだ。明日の朝、まだここにへばりついているようであれば、力ずくで引きずり出し、庵ごと叩き壊してくれるわ!」
捨て台詞を残し、役人どもは傲慢な足取りで去っていった。しかし、長屋全体の空気は、怒りと、あまりにも理屈の通らない巨大な権力への恐怖で、凍りついたように重く沈んでいた。
お鈴は悔しさに唇を噛み、涙を浮かべて男の衣の袖を掴んだ。
当の男だけは、困ったように笑いながら、去っていく役人たちの背中を眺めていた。
役人どもが去った後も、長屋の住人たちは男の庵の前に集まり、拳を握りしめて憤っていた。
「ちくしょう、お上のやることときたら、いつだって勝手極まりねえ!」
熊ゴロが地面を蹴りつければ、お鈴も涙を拭いながら男を見上げる。
「旦那、あたしたちも一緒に戦うよ。長屋のみんなで役所の前に座り込みでも何でもして、お上の横暴を止めてみせる!」
皆が我がことのように怒り、男を守ろうと必死に声を荒らげる。その温かい情義の塊を全身に浴びながら、男は、ただ優しく皆を見回した。
男は怒るどころか、どこか晴れやかな顔で、ぽんと頭を掻いて笑った。
「いやあ、みんな、気の毒にそこまで熱くなってくれて有り難う。だけどよ、心配には及ばねえよ。ちょうど俺も、新しい旅に出たくなっていたところなんだ」
「え……?」
お鈴が呆気にとられたような声を漏らす。源兵衛も熊ゴロも、耳を疑ったように目を丸くした。
「京の町も、少々狭くなってきおったからな。お天道様の下、のんきに草鞋を履き替えて、まだ見ぬ土地の美味いものでも食いに出かけるさ。何、荷物らしい荷物もない身軽な身体だ。引き止める理由は何一つねえよ」
男の言葉は、嘘偽りのない本心であった。権力にしがみつく国経の執念など、男の広い心にとっては、ただの旅立ちのきっかけに過ぎない。庵という形ある場所を奪われようとも、男の魂が持つ圧倒的な明るさと自由は、何者にも縛りつけることなど出来なかった。
その夜、下町の空に星が瞬き始める頃、男の庵の裏手では、世にも奇妙で愉快な夜逃げが始まっていた。
夜陰に乗じてこっそりと抜け出すはずが、長屋の連中が誰一人として寝ていなかったのだ。
「旦那、これを持っていっておくれ。道中で腹が減ったら、干し肉代わりに齧るんだ」
「これ、私の作った新しい草鞋です。どうか足元をお守りください」
民たちは、涙を流しながらも、男の門出を祝うように笑顔で荷物を差し出してくる。たぬき屋の為蔵も、仕込みの手を止めて駆けつけ、ずっしりと重い握り飯の包みを男の手へ握らせた。
「旦那、あんたのくれた命だ。俺はここで、日本一の蕎麦を打ち続けて待ってるからな」
男はそれらの贈り物を愛おしそうに懐へ収めると、最後に深く一礼をした。
「みんな、元気でな。為蔵、美味い蕎麦を、これからも頼んだぞ」
しかし、男の足取りには、都を追われる者の悲壮感など微塵もなかった。
背中に小さな包み布を一つだけ背負い、男は振り返ることなく、軽やかな足取りで暗闇の街道へと歩みを進めていく。その大きな背中は、夜の闇に消えていく瞬間まで、まるでお天道様をその身に宿しているかのように、眩しく、そして不敵に堂々と輝いていた。
第三十六話へ続く




