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天下無敵の詠み人知らず  作者: 沢 一人
大御宝を慈しむ
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第三十四話:奇跡の男と、胃の痛い選者たち

第三十四話:奇跡の男と、胃の痛い選者たち

 あの熱い涙と最高の蕎麦に満たされた夜から、数ヶ月の時が流れていた。

 季節は移り、下町の空には眩しい初夏の太陽が輝いている。たぬき屋の店先からは、今日も小気味よい音が響いていた。

 トントン、トントン。

「はいよ、お待ちどうさま! 茹でたての美味い蕎麦だよ!」

 お鈴が威勢のいい声を上げ、客の待つ机へと蕎麦を運んでいく。その活気溢れる姿を、店の奥の板場から為蔵が満足そうに見守っていた。

 あの夜、死の淵にいたはずの職人は、まるで嘘のように気力を取り戻し、今では以前と変わらぬ手つきで麺を打っている。寝込んでいた姿が幻であったかのようなその復活劇に、常連の客たちは、為蔵が蕎麦を運ぼうとするたびに「おいおい、無理しねえで休んでな」とハラハラしながらも、嬉しそうに声をかけていた。

「いやあ、それにしても為さんがこれだけ元気なんだ。あの医者、大層な看立てをして長屋中を大騒ぎさせおって、本当はただのやぶだったんじゃねえかって、みんなで疑い始めてるんだよ」

 熊ゴロが昼間の縁側でそう言えば、大家の源兵衛も首を振りながら応じる。

「全くだ。命の期限がどうのと脅しおって。とんだ食わせ物の爺さんだったな」

 長屋の面々にとっては、あれは笑い話の種となっていた。あの凄まじい絶望を乗り越えたからこそ、今の為蔵の元気な姿がただただ有り難く、愛おしい。

 長屋の誰もが「やぶ」と疑っているあの老医師は、決して看立てを誤ったわけではない。あれは本物の医者ですらなかった。男は庵の縁側に腰掛け、初夏の風に揺れる青葉を眺めながら、その噂話の裏にある冷徹な真実を見抜いていた。

 すべては、国経の差し金であった。

 正攻法で男を失脚させられず、下町の民からも慕われる男の存在を忌々しく思っていた国経は、実に陰湿な罠を仕掛けていた。為蔵という長屋の精神的な支柱を狙い、偽の医者を送り込んで「もう長くない」という偽りの絶望を植え付けたのだ。

 家長を失う恐怖によって民の士気を落とし、絶望した彼らをあの場所から立ち退かせる。それこそが、権力の座に胡坐をかく国経の、底知れぬ悪辣な策略の正体であった。

 普通の人間であれば、その偽りの絶望に押し潰され、そのまま本当に命を落としていたかもしれない。国経の計算違いは、男の存在、そして男が放ったあの三十一文字の言霊の凄まじい力であった。

 男がもたらした圧倒的な明るさと、民の命を永遠の巌として肯定する和歌の力が、為蔵の魂の澱を完全に洗い流したのだ。

 絶望の呪縛が解けた職人の身体は、魂の呼び声に応えるようにして、自らの力で病の影を撥ね退けた。

 これこそが、奇跡の真相であった。

「執念深い男だな、国経も」

 男は小さく呟くと、不敵な微笑みを唇の端に浮かべた。

 自分の命を狙うだけでなく、牙を持たない名もなき民の命までをも平気で弄ぶ。その権力側の非道さに対する怒りは、男の胸の奥底で激しく燃え上がっていた。同時に、男は直感していた。あの傲慢な藤原の男が、このまま引き下がるはずがない。次なる魔の手は、より直接的に、自分自身の足元へと伸びてくるに違いないと。

 下町の明るい陽光の裏で、権力の執念という名の暗雲が、刻一刻と男の庵へと忍び寄っていた。

 ◇

 下町の人情味溢れる活気がお天道様に照らし出されていた頃、そこから遠く離れた平安の宮廷の一角には、どんよりとした重苦しい暗雲が立ち込めていた。

 古今和歌集、編纂所。

 山のように積み上げられた古い木簡と、選定を待つ無数の歌が書かれた懐紙の山に埋もれるようにして、一人の若き男が、机に突っ伏して深く呻いていた。

「ああ……また胃が……。なぜこうも、右大臣家からの横槍ばかりが入るのだ……」

 紀貫之。弱冠にして天皇の勅命を受け、国家の一大事業である和歌集編纂の筆頭選者を任された、若き俊英歌人である。その端正な顔立ちは、連日の徹夜と心労のせいで、今や青白くやつれ果てていた。

 生真面目でお調子者になれない貫之にとって、この役職は針のむしろであった。

「もっと華やかで藤原の世を讃える歌を増やせ」という右大臣家からのあからさまな忖度の要求と、「我が朝廷の誇りとなる、真に格調高き歌を選べ」という醍醐天皇からの絶対的な重圧。その巨大な板挟みの真ん中で、貫之は毎日のように吐き気を堪え、ウジウジと頭を抱えていた。

「おいおい、また朝からそんな陰気な顔をして、可哀想に、また胃をさすっているのかい、貫之」

 間抜けた声を上げて部屋に入ってきたのは、同僚の選者である凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)であった。その手には、役所の安い配給品の干し魚が握られている。躬恒はそれを齧(かじ)りながら、ドサリと席に座るなり、いつも通り延々と愚痴をこぼし始めた。

「聞いてくれよ。我が国の最高峰の文人を集めたと言いながら、この編纂所の予算の削られ方は何なんだ。紙の質は落ちる一方だし、夜勤の油代すらまともに出やしない。これじゃあ、お上のために良い歌を選ぶ前に、こっちの目が潰れて使い物にならなくなっちまうよ。だいたい、あの藤原の若造たちの歌をねじ込むくらいなら、その分の手当を……」

「これ、躬恒。壁に耳あり、だ。あまりお上や藤原の方々の悪口を大声で言うな。私の胃が、さらに雑巾のように絞られる」

 貫之が涙目で窘(たしな)めると、今度は部屋の隅で、生真面目な顔をして筆を執っていたもう一人の同僚、壬生忠岑(みぶのただみね)が、涼しげな目元をぴくりと動かし、極めて理屈っぽく口を挟んできた。

「躬恒の愚痴は生産性がありませんが、貫之、あなたのウジウジとした態度も、和歌の構造的評価から言えば全くの無駄です。藤原氏の歌を入れるべきか否かという問題は、政治的損得ではなく、その歌が『古今集』全体の構造において、いかなる美学的機能を果たすかという論理によってのみ決定されるべきです。例えば、この恋歌の三五首目、五七調の破調がみられますが、これは感情の揺らぎを論理的に表現したものであり……」

「忠岑、頼むから今はその長ったらしい講釈をやめてくれ! 頭が割れそうだ!」

 貫之は机を叩いて叫んだが、二人は全く堪(こた)えた様子もない。

「へえへえ、筆頭選者殿は大変だねえ。どうせ俺たち叩き上げの愚痴なんか、お上の耳には届きやしないのさ」

「私の論理的指摘を無視するようでは、この和歌集の完成度は著しく低下しますね。誠に遺憾です」

 延々と続く躬恒の不平不満と、忠岑の理屈の波。その二人の強烈な個性の間で、貫之は完全に魂を吸い取られたような顔になり、またもや細い指で胃のあたりをぎゅっと押さえた。

「なぜ私なのだ……。もっと飄々と、政治の荒波を笑い飛ばせるような、そんな強靭な魂を持った男が筆頭をやってくれればよかったのに……」

 宮廷の窮屈な四角い部屋の中で、若き選者たちは、今日もそれぞれの小さなしがらみに囚われ、滑稽なほどに右往左往していた。このウジウジとした俊英たちの元へ、あの下町の風に舞った、世界を揺るがす至高の三十一文字が届くのは、そう遠い日のことではなかった。


     第三十五話へ続く








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