第三十三話:風に舞う言霊
第三十三話:風に舞う言霊
男の言葉が、重く沈んでいた店内の空気を一瞬で撥ね退けた。
「あっしに、最後の最高の仕事をさせておくんなせえ」
為蔵は涙を拭うと、這うようにして立ち上がった。その身体は病に冒され、本来なら一歩を動かすことすら苦しいはずであった。今の為蔵の背中には、先ほどまでの死の影りなど微塵も残っていない。魂の奥底から救われた至上の喜びが、その老いた職人の身体へ、新たな命の炎を注ぎ込んでいた。
為蔵は真っ直ぐに板場へと向かい、手際よく釜の火を煽った。
熊ゴロが慌てて手伝おうと身体を動かしたが、為蔵はそれを手で制した。
「手出しは無用だ、熊。これはあっしの命の蕎麦だ」
職人の意地が宿るその横顔に、長屋の連中はただただ圧倒され、固唾をのんで見守るしかなかった。
釜の水が激しく沸騰し、白い湯気が板場から溢れ出して天井へと上っていく。為蔵は、大切に打っておいた蕎麦の麺を、愛おしそうに両手で掲げ、沸き立つ湯の海へと一気に放り込んだ。
太い菜箸を操る手つきには、長年培ってきた職人の正確なリズムが宿っていた。湯気の中に、蕎麦粉の香ばしい匂いと、出汁の濃厚な香りが立ち込めていく。
お鈴は口元を押さえたまま、父親のその誇り高い後姿を、涙の滲む瞳で見つめ続けていた。
「さあ、お待たせ。あっしの極上の蕎麦だ。存分に手繰ってくんなせえ」
為蔵の手によって、長屋の連中と男の前に、湯気を立てる蕎麦が次々と運ばれてきた。
熊ゴロは、太い箸で蕎麦を豪快に手繰り、一気に口へとすすり込んだ。
「……旨い。旨えよ、親方! こんな蕎麦、今まで食ったことがねえ!」
魚屋の政吉も、八百屋のお徳も、涙を流しながら笑顔で蕎麦を啜った。いつもは店賃の帳面を見つめて眉を顰めている大家の源兵衛も、煎餅座布団を脇に置き、ただの老いた友人として、為蔵の蕎麦を美味そうに口に運んでいる。
神聖な感動に満たされていた居酒屋の空間が、いま、下町のいつもの、旨い蕎麦を食う幸せへと見事に戻っていた。男もまた、満足そうに蕎麦を啜り、為蔵に向かって深く頷いてみせた。
宴の後の一眠りから目覚め、男の和歌に魂を震わせた面々が蕎麦を食べ終える頃、東の空がうっすらと白み始めていた。夜明け前のひやりとした空気が長屋を通り抜ける中、たぬき屋の店内には、これまでにない温かい幸福感がどこまでも広がっていた。
夜が明ければ、寝不足など吹き飛ばす、力強いお天道様が昇ってくる。雲一つない青空から、眩しい光が燦々と降り注いだ。
為蔵の病が奇跡的に完治したわけではない。彼らが直面している、その日暮らしの貧しい現実が何一つ変わったわけでもなかった。しかし、長屋全体の空気は、昨日までとはまるで違っていた。
「おい、熊! ぐずぐずしてねえで、さっさと荷車を引っぱり出しな!」
大家の源兵衛の声が、朝一番の長屋に響き渡った。その声には、いつも以上の張りと威勢の良さが満ち満ちている。
「へえへえ、分かってますよ、大家さん!」
熊ゴロは、弾かれるように長屋へ飛び出してきた。その丸太のような腕には、溢れんばかりの活気が漲っている。自分たちの命は、無邪気に眠っていた子供たちの血へと受け継がれ、永遠に続いていく。その確信を得た男たちの生命力は、泥臭くも圧倒的に強い足取りで、朝の市場へと向かっていった。
たぬき屋の店先では、お鈴がいつも通りに呼び込みの声を上げていた。
「いらっしゃい、いらっしゃい! 茹でたての美味い蕎麦だよ!」
その声は高く、どこまでも澄んで下町の空に響き渡る。板場からは、為蔵が蕎麦を打つ、トントンという規則正しい小気味よい音が聞こえていた。
彼らは誰も、昨夜の出来事を大声で語り合おうとはしなかった。男が残したあの三十一文字の言霊は、彼らの胸の奥底に、消えない黄金の錨として深く打ち込まれていた。
そんな活気に沸くたぬき屋の店先、夜明け前に男が文字を書き連ねた、あの茶色い包み紙が机の上に置かれたままになっていた。
朝の乾いた突風が、不意に長屋の路地を吹き抜けた。
店先に置かれていた包み紙の端が、擦れる音を立てて持ち上がる。次の瞬間、紙はふわりと宙に浮き上がり、お鈴の呼び込みの声に背を押されるようにして、店の外へと舞い出ていった。
誰もその行方に気づかぬまま、歴史のすべてを宿した一枚の紙は、下町の屋根を越え、遥かなる外の世界へと旅立っていった。
風にさらわれた茶色い包み紙は、下町の雑多な埃にまみれながら、路地から路地へとひらひらと舞い踊っていた。それはまるで見えない意思に導かれるように、大通りを越え、やがて人々が行き交う賑やかな街道筋へと流れ着く。
そこをちょうど通りかかったのが、諸国を巡る一人の旅の楽人であった。背中に古びた楽器を背負い、草鞋の紐を締め直しながら歩いていた男の足元へ、その紙は、意思を持ったかのように吸い寄せられ、泥の上にぴたりと落ちた。
「おっと、なんだい」
楽人は足を止め、泥に汚れかけたその茶色い包み紙を見下ろした。いつもなら見向きもしないような、ただのゴミである。楽人はふと、その紙の裏側にうっすらと黒い墨の跡が見えることに気づいた。
「手習いの落書きか、それとも鼻紙の代わりにでもなるか。まあ、何かの役に立つかもしれないな」
楽人は深く考えることもなく、その紙を拾い上げると、無造作に二つに折って懐の奥へと放り込んだ。そのまま、下町の活気を背に、次の宿場町を目指して再び歩き始めていった。
数里ほど街道を進んだ頃、太陽はすっかり頭の上に昇り、じりじりと肌を焼き始めていた。喉の渇きを覚えた楽人は、街道沿いの鄙びた旅宿を見つけ、ほっと息をついて戸口をくぐった。
「ばあさん、焼き餅を二つと、湯を一椀くれ」
楽人は店先の長腰掛けにどさりと腰を下ろし、旅の荷物を傍らに置いた。すぐに運ばれてきた焼き餅を手に取ると、豪快にかぶりつく。 香ばしい米の香りに目を細め、湯を喉へ流し込んだ。それはどこにでもいる、世俗の垢にまみれた旅人の姿そのものであった。
餅を咀嚼しながら、楽人はふと、先ほど懐にしまい込んだ包み紙のことを思い出した。指の汚れを拭う紙にでもしようかと、何気なく懐からそれを取り出し、膝の上で無造作に広げた。
「ん……?」
楽人の顎が、ぴたりと止まった。
ただの薄汚れた包み紙の裏。そこに躍っていたのは、今まで彼が一度も目にしたことのない、凄まじい気迫を孕んだ黒い文字の列だった。
流麗でありながら、紙の繊維を破らんばかりの力強さを持つ、圧倒的な達筆。いつも目にする役人の実用的な文字や、町人の崩し字とは、格がまるで違っていた。それはかつて格式高い宮廷で、至高の教養を身につけた者だけが紡ぎ出すことのできる、本物の高貴な文人の筆跡であった。
楽人は餅を飲み込むことすら忘れ、目を見開いてその文字を頭から一字ずつ追った。
『我が君は 千代に八千代に』
その最初の十一文字が脳裏に飛び込んできた瞬間、楽人の背筋に、冷たい戦慄が走った。
「我が君」
旅をしながら数々の歌を聴いてきた楽人にとって、その言葉の持つ意味の重さはすぐに分かった。これは主君を、あるいは命そのものを、この上なく尊いものとして讃える賛歌の始まりであった。続く文字を追うにつれ、楽人の身体は、目に見えてがたがたと震え始めた。
『さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで』
その三十一文字のすべてを読み終えたとき、楽人は完全に言葉を失っていた。
口の中に残っていた餅の味など、もう完全に吹き飛んでいた。小さな石ころが集まり、長い年月をかけて巨大な巌となり、そこに青々とした苔がむしていく――。その壮大な時間の流れと、命が永遠に連鎖していく情景が、この茶色い汚れた包み紙の裏で、完璧な調和を持って完成していた。
なんという、神聖なほどの完成度。なんという、魂を鷲掴みにする言霊の響きか。
「と、とんでもない物を……拾ってしまった……!」
楽人は、旅宿の店先で一人、冷や汗を流しながら激しく動揺していた。ただの下町の包み紙の裏に、歴史を揺るがすほどの国宝級の歌が、それも尋常ならざる高貴な人間の筆によって書き残されている。これがもし、お上の目に留まれば、あるいは世に広まれば、一体どれほどの騒ぎになるか。
楽人は周囲をきょろきょろと見回し、旅宿の老婆がこちらを見ていないことを確かめると、震える手でその紙を、今度は割れ物を扱うかのように丁寧に折り畳んだ。そして、己の命の次に大切な宝物でも隠すように、懐の最も深いところへと、厳重にしまい込んだ。
たぬき屋の小さな居酒屋で生まれた歌が、いま、一人の旅人によって、歴史の表舞台へと連れ出されようとしていた。
第三十四話へ続く




