第三十八話:名もなき歌への反逆
第三十八話:名もなき歌への反逆
宮廷の和歌編纂所は、張り詰めた空気に包まれていた。
「正気か、貫之殿」
机の上に広げられた『古今和歌集』の草案を前に、編纂所を統括する上級役人が、冷ややかな視線を貫之に浴びせた。
役人があごで忌々しげに示したのは、貫之が「賀の歌」の筆頭に据えた、あの油紙の和歌である。そこには作者の姓名の代わりに、墨黒々と【よみ人しらず】とだけ記されていた。
「これほどの至高の言霊です」
貫之は、机に両手をついて声を絞り出した。
「作者が誰であるかなど、この際問題ではありますまい。この歌には、聴く者すべてを寿ぐ、本物の力が宿っているのです。これを祝いの歌の初めに置かずして、何のための歌集ですか」
「ふん、理屈になっておらん。これだから下町の風に当てられた者は困る」
役人は鼻で笑いながら、草案を乱暴に叩いた。
「我が朝廷の威信を懸けた初の勅撰和歌集ぞ! 載せる歌は、詠み手の身分、血筋、そして家格が厳しく問われるのが宮廷の不磨の大臣たちの決め事だ。どこの馬の骨の作とも分からぬものを、めでたい賀の歌の筆頭に据えるなど前代未聞の不祥事だ。お上の耳に入れば、我ら全員の首が飛びかねんぞ」
「しかし……!」
「外せ。今すぐだ」
容赦のない言葉が、編纂所の天井に冷たく響いた。
「宮廷の規則は絶対だ。これ以上、素性の知れぬ歌に拘泥するなら、選者の職を解くよう右大臣家に進言せねばならんな」
役人は関わり合いを拒むように、足早に部屋を去っていった。編纂所の広い部屋には、貫之がたった一人、朝廷という巨大な権威の前に取り残されていた。
言葉を失った貫之は、逃げるように編纂所を飛び出した。
夕暮れの宮廷の廊下を、ふらふらと歩く。
胸の奥を激しい痛みが襲い、貫之は柱にすがりついた。いつもの胃痛ではない。己の無力さと、宮廷の分厚い壁に対する、深い絶望の痛みだった。
(私は……なんて愚かなのだ)
貫之は自分の両手を見つめ、情けなさに唇を噛んだ。
あの日、あの空っぽの庵で、男の正体を「霧の彼方で良い」などと格好をつけて諦めたのは、ただの自己満足に過ぎなかったのだ。
もし、あの男の正体が本当に紀友則であったなら。あるいは、身元の確かな高貴な能書家であったなら。その名前さえ分かれば、どれほど反対されようとも、堂々と宮廷の規則に則って歌集に載せることができたはずだ。
「名前が、分からない……」
ただそれだけの理由で、あの天を突くような素晴らしい言霊が、歴史の闇に葬り去られようとしている。
名前という窮屈な箱を嫌った男の意志を尊重したつもりが、その名前を持たないがゆえに、男の遺した歌を何一つ守ることができない。
夕闇が迫る中、貫之は一人、冷たい床に崩れ落ちた。
いつもなら懐の胃薬に頼るところだが、今はその気力さえ湧かない。ただ、あの店先で見た男の、途方もなく大きな背中の記憶だけが、手の届かない遠い幻のように、貫之の心の中で揺れていた。
第三十九話へ続く




