第三十話:名もなき石の光
第三十話:名もなき石の光
為蔵のその言葉に対し、男は何も言わずに首を振った。
男は懐へ手を差し入れると、一つの小さなものを取り出した。それは、かつて長屋の子供たちが文字を教えてくれるお礼にと、感謝の代償として男へ差し出した、彼らにとっての宝物である河原の小石だった。
枕元で揺れる灯明の火を浴びて、ほんのりと朱白く光っている。
男はその小石を為蔵の痩せた手のひらにそっと乗せ、愛おしそうに見つめながら語りかけた。
「そんなことはないよ、為蔵さん。この名もない小石を見てみなよ。ただの石ころだけど、子供たちが文字を教わるお礼にと、一番大切にしていた宝物だ。文字を学びたいという純粋な心が詰まっていて、こうして俺の懐で綺麗に光っている。おやっさんが今まで懸命に打ってきた蕎麦も、これと同じじゃないか」
為蔵は手のひらの小石を見つめ、掠れた息を漏らした。男の言葉は、夜陰の静寂に染み渡るように続く。
「文字としては残らなくても、おやっさんの生きた証は、長屋の連中や子供たちの記憶にいつまでも残る。さっきの宴を見ていて分かっただろう? 誰もあんたを忘れないし、忘れられないんだよ。文字なんてなくても、人の心にはちゃんと残っているんだ」
男は横たわる為蔵の目をじっと見据え、その冷えかけた手をごつごつとした手で強く包み込んだ。
男の瞳の奥に、かつて宮廷にいた頃には決して持ち得なかった、下町の民への熱い情愛の火が灯る。
「いいかい、為蔵さん。人間、死ぬまでは生きているんだ。だから、一瞬一瞬を悔いのないように生ききってくれ。生ききって、燃え尽きて、それが人生ってもんじゃないか? 違うかい?」
男の力強い言葉と、魂を揺さぶるような言霊の響きに、為蔵の澱んでいた瞳の奥で、小さな火花がパチパチと爆ぜた。死の恐怖に凍りついていた心へ、男の熱い命の灯火が容赦なく流れ込んでいく。
「……旦那様……へへ、違いねえや……」
為蔵の目から、一筋の熱い涙が頬を伝って流れ落ちた。それは諦めの涙ではなく、最期まで職人として、父親として生き抜こうとする、意地っ張りな魂の咆哮だった。
その涙を見た瞬間、男の胸の奥で、言葉にできない凄まじい衝動が突き上げた。この愛すべき民たちの命を、笑顔を、はかないままで終わらせてなるものか。
「よし。なら俺が、お前たちのその命を、永遠に変えてやる」
男は立ち上がり、鋭い眼差しで傍らにあった筆を引き寄せた。その手には、いつも店で使われている、たぬき屋の何の変哲もない包み紙の裏が握られていた。
第三十一話へ続く




