第三十一話:闇に灯る、愛しき民の眼差し
第三十一話:闇に灯る、愛しき民の眼差し
男が「お前たちのその命を、永遠に変えてやる」と言い放ち、硯に向き直った。
墨をする滑らかな音が、店内の空気を鋭く引き締めていく。男の発する圧倒的な気迫が、眠りに就いていたはずの空間をじわじわと支配していった。
男はふと、手元から視線を巡らせた。
床に転がっていたはずの長屋の連中が、誰一人として眠っていないことに気づく。彼らは皆、息をひそめ、二人の会話を最初からじっと聴き入っていたのだ。
奥の部屋の障子の隙間から、お鈴が顔を覗かせていた。勝ち気な彼女が口元を両手で強く押さえ、嗚咽を堪えながら父親の姿を見つめる。その頬には幾筋もの涙が伝い、父親の生き様をすべて心に刻み込もうとするかのように、濡れた瞳が揺れていた。
床に寝そべったままの熊ゴロは、太いたくましい拳を痛いほどに握りしめていた。男の「生ききって、燃え尽きろ」という言葉に魂を鷲掴みにされたのだろう。
為蔵の命の灯火を絶やさぬように守り抜くという強い決意を秘めた、野獣のような鋭い眼差しが闇の中で光っている。
いつもは「店賃を払え」と口うるさく畳みかけてくる大家の源兵衛も、使い古した煎餅座布団を胸にきつく抱きしめたまま、薄く目を開けていた。為蔵とは若い頃からの付き合いで、誰よりもその身体を案じていた男である。源兵衛は鼻をすする音さえ立てぬよう息を殺し、溢れ出る涙を拭おうともせず天井を見つめていた。
酔い潰れたふりをしていた魚屋の政吉や、八百屋のお徳も、横たわったまま頬を涙で濡らしていた。名もない自分たちの泥臭い命を、子供たちが差し出した命の次に大切な宝物のように、美しく輝く宝石だと肯定してくれた男への深い感謝。そして為蔵への切ない祈りが、その刻まれた皺の奥の目元に溢れている。
部屋の隅では、琵琶法師が頭巾をきつく握りしめ、驚愕と感動に目を見開いていた。
男は、彼ら全員が心を震わせて耳を傾けていることを承知の上で、為蔵へ、そして店内に満ちる愛すべき民たちに向かって向き直った。穏やかに、腹の底に響く声で語りかける。
「為蔵さん、途中で家に帰った子供たちのことを考えてごらん。太助たちはいま、愛すべき長屋の布団の中で、今日楽しかった宴の夢を見ながらぐっすり眠っているはずだ。あの子たちがこれから大きくなって、また新しい命を育てていく。俺たちがここで懸命に生きて、繋いできた笑顔はね、あの子たちの血の中にちゃんと生きていくんだよ」
男は堂々と筆を掲げ、為蔵の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、目の前の民たちへの至上の敬意が宿っている。
「俺にとって、ここにいるお前たち一人ひとりこそが、生涯をかけて仕えるべき『主』であり、かけがえのない宝だ。だから、その命も、笑顔も、ここで終わりじゃない。小さな石が集まって、大きな巌になって、そこに苔が生えるまで、ずうっと、ずうっと続いていくんだ」
たぬき屋の何の変哲もない包み紙の裏に、男の黒い墨汁が鋭く染み込んでいく。
第三十二話に続く




