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天下無敵の詠み人知らず  作者: 沢 一人
大御宝を慈しむ
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第二十九話:祭りのあと、命のゆくえ

第二十九話:祭りのあと、命のゆくえ

「親方ァ!」

 宴が最高潮に達した頃、大工の熊ゴロが酒樽の前にぜいぜいと息を切らせて這い出してきた。その顔は涙と鼻水、あるいは酒でぐしゃぐしゃに濡れそぼっている。彼は高座の上の為蔵に向かって、勢いよく頭を床に叩きつけた。

「親方が死んじまったら、お鈴ちゃんは俺が一生、命がけで守ります! だから、生きてるうちに言わせてくだせえ! お鈴ちゃんを、俺に、俺に嫁にくだせえ!」

 店内に一瞬の沈黙が訪れ、次の瞬間、長屋の連中からドッと割れんばかりの爆笑と拍手が巻き起こった。

「よく言った、熊!」「気の早い求婚だな!」

 為蔵は真っ赤な頭巾を曲げ、怒りで顔を真っ赤にして高座から身を乗り出した。

「馬鹿野郎! 誰が死ぬか! お前みたいな木屑だらけの大工に、誰が大事な娘をやるか!」

 口を極めて怒鳴る為蔵だが、その目はどこか潤み、不器用な男の誠実さに照れ隠しの毒づきをぶつけていた。

 そこへ、今度は禿げ頭を赤く光らせた魚屋の政吉が、ふらつく足取りで高座の前へと進み出た。

「親方! 熊の野郎ばっかりに良い格好はさせねえぞ! 俺だって、去年の冬にカミさんと大喧嘩して家を叩き出された時、親方が黙って出してくれた焼き魚と熱い粥(かゆ)の味、骨の髄まで染みてるんだ! あの時、親方が『これ食って頭冷やせ』って言ってくれなきゃ、俺ぁ今頃のたれ死んでた! まだ死んじゃいねえけど、ありがとよ!」

「そうだそうだ!」と、今度は裏の長屋に住む八百屋のお徳が、大きな身体を揺らしながら割って入る。

「わしだってねえ、おやっさん! 倅が病気で、明日の米にも困ってた時、おやっさんが『これ、形が崩れたから売り物にならねえ』って、嘘ついて毎晩のように蕎麦の粉を分けてくれたこと、ちゃんと分かってるんだからね! おやっさんは口が悪いけど、下町一、お天道様みたいな人だよ!」

 住人たちが次々に声を張り上げ、お経の代わりに日頃の「ありがとう」を為蔵に投げつけるたび、店内は涙と笑顔の渦に包まれていく。為蔵は「どいつもこいつも、うるせえや! 恩着せがましいことを言うんじゃねえ!」と腕を組んでそっぽを向くが、その目頭は真っ赤に熱くなっていた。

 騒ぎが少し落ち着いた頃、お鈴が父親の前に歩み寄った。彼女は手拭いをきつく握りしめ、高座の上の小さくなった父親の姿をじっと見つめる。

「父ちゃん、今まで本当にありがとう」

いつもは勝ち気な娘の、震える声だった。

「お母ちゃんが死んでから、あたし、この頑固で意地っ張りな父ちゃんの背中だけを見て育ってきた。世界一かっこいい、あたしの自慢の父親だよ。だから……勝手に冬に逝こうなんて思わないでよ。意地でもお餅食べて、あたしの打つ蕎麦を見るまでは生きててよ……」

 お鈴は堪えきれずに涙をボボロボロとこぼしながら、それでも無理に笑顔を作って父親の手を握った。為蔵はふいと顔を背けたが、ちゃんちゃんこの赤い肩は、震えを抑えきれずにいた。

 そこへ、すかさず琵琶法師が割って入り、熊ゴロとお鈴をからかうように琵琶をベベンと掻き鳴らした。宮廷の古い恋の唄を、下町風に崩した極上の艶声で朗々と歌い始める。

「逢い見ての〜のちの心に〜くらべれば〜♪ 熊の想いは〜富士の山陰、煙を吐いて焦がれ死ぬ〜♪ お鈴の胸は〜いかに燃ゆらん〜♪」

「おい法師! からかうな!」と顔を真っ赤にする熊ゴロに、一同は大爆笑。太助たち子供たちも「焦がれ死ぬー!」とはやし立てながら、男に教わったばかりの「蕎麦」や「為蔵」という拙い文字の紙を「じいちゃん、これあげる!」と為蔵に手渡していく。為蔵は「へたくそめ……」と呟きながらも、その紙を胸元に深く抱きしめた。

 飲んで、泣いて、笑って。長屋の愛がたぬき屋の小さな空間を優しく満たしていった。

 ◇

 夜更け。

 あれほど騒がしかった連中も、すっかり酒に酔い潰れ、床のあちこちでゴロゴロと雑魚寝している。お鈴も片付けを終えて奥の部屋で深い眠りに落ち、店内にはパチパチと爆ぜる灯明の音だけが、夜陰に小さく響いていた。

 宴の賑わいが去った店内で、高座から下りて再び薄い布団に横たわった為蔵と、その布団の横に座った男の二人だけが、向かい合っていた。

 為蔵は、胸元に抱えた子供たちの拙い文字を見つめ、それから店内の壁に掛けられた、男の書いた圧倒的に美しいお品書きの文字へと目を移した。消えゆく自身の運命と、長屋の愛すべき連中のはかなさが、どっと胸に押し寄せてきたようだった。

 為蔵は枕元の子供たちの紙を見つめたまま、絞り出すような声で、男へ語りかけた。

「旦那様、わしの命は短い。あんたみたいに立派な文字も残せない。死んだら何も残らないのが寂しいや」

      第三十話に続く





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