第二十八話:前代未聞の御開帳
第二十八話:前代未聞の御開帳
「おい、みんな。為蔵さんの還暦祝いをやるぞ」
たぬき屋の薄暗い土間で、男がぽつりと言った。その一言に、長屋の住人たちが一斉に顔を上げた。
「……旦那、正気かよ」
熊ゴロが太い眉をハの字に曲げ、荷物台から身を乗り出す。お鈴も竈の前で、涙を拭うのを忘れてぽかんと男を見つめていた。親方が今年の冬を越せるかどうかという時に、祝い事など不謹慎極まりない――長屋の連中の顔には、そんな戸惑いがはっきりと浮かんでいた。
男は懐から手拭いを取り出し、肩をすくめてニヤリと笑う。
「ただの祝いじゃない。本人がまだ生きてるうちに、みんなで盛大に冥福を祈って、日頃の感謝を本人にぶちまける、名付けて『生前葬』だ」
「生前葬だァ!?」
熊ゴロの怒鳴り声が響く。お鈴も眉をひそめ、持っていたお玉をきつく握りしめた。
「縁起でもねえ! まだ親方は生きて寝てんだぞ!」
「だからいいんじゃないか、熊」
男は真面目な顔をして首を振った。
「本当に仏になっちまってからじゃ、みんなの『ありがとう』も『蕎麦が美味かった』って言葉も、為蔵さんの耳には届かないだろ。耳の穴がかっぽじれているうちに、直接その頑固な頭に叩き込んでやろうじゃねえか。それともお前、為蔵さんが死んだ後に、陰でこっそりシクシク泣く方がお好みか?」
男の言葉に、熊ゴロはぐっと言葉を詰まらせた。お鈴もハッと息を呑み、寝所の薄暗い襖の奥へ目をやる。
静まり返った店内に、男がさらに言葉を重ねた。
「暗い顔をして悪霊を喜ばせるのは、昨日までにしよう。あのおやっさんを一番ビビらせて、一番笑わせる宴を仕掛けるぞ。長屋の底力、見せてやれ」
その時、店の薄暗い戸が、おずおずと開いた。「……失礼いたします。満月の夜の御人、おられるか」
現れたのは、あの頭巾を被った琵琶法師だった。かつてお上の醜聞を歌って追われ、共にお鈴の薬代を稼ぎ出した元・商家の駄目息子。彼は頭巾をむしり取ると、汗の滲んだ顔を上げて男の前に平伏した。
「為蔵殿の病の噂を聞き、居ても立ってもいられず駆け参じました。お鈴さんの時の握り飯の恩をお返ししたい。為蔵さんの握った飯は、飢えた私の心と腹に何より染みました。できることがあれば、何なりと……!」
男はそれを見て、声を立てずに不敵な笑みを浮かべた。
「ちょうどいい。坊さんが足りなくて困ってたんだ。おい、法師。お経の代わりに、その極上の声で為蔵さんの生前葬の導師をやれ」
「は、はい……って、えええっ!? 導師!?」
法師が素っ頓狂な声を上げ、目を丸くして後ずさりする。
「私は平穏の唄を歌う楽人であって、僧侶では……!」
「お経なんて雰囲気だ、雰囲気。お前ならできるだろ」
男が法師の肩をがっしりと掴み、ぐっと顔を近づける。その瞳の奥にある元役人の圧倒的な威圧感に押され、法師は冷や汗を流しながら「分かりました、やらせていただきます……!」と引きつった顔で頷くしかなかった。
一度方針が決まれば、下町の住人たちの動きは早かった。
「ようし! 親方に恥はかかせねえ!」
熊ゴロは鼻の頭を真っ赤にしながら、大工の道具箱をひっくり返し、夜通しで店の中に立派な木製の高座を組み上げた。まるで宮廷の祭壇かと思うほどの手際の良さで、叩く木槌の音にも不思議な活気が宿っている。
お鈴は泣き笑いの顔のまま、長持の奥から大切に保管されていた真っ赤なちゃんちゃんこを引っ張り出し、愛おしそうに何度も叩いて埃を払った。
長屋の大人たちも、各自が隠し持っていた最高のご馳走を内緒で運び込む。畑の芋、川で獲れた大きな鮒、どこからか工面してきた安酒の樽。
悲しみに沈んでいたたぬき屋は、瞬く間に「大真面目な悪ふざけ」の熱気で溢れかえっていった。
◇
そして、宴会当日。
「おい、何をしやがる! 離せ、このド不届き者どもが!」
寝所から熊ゴロの両腕で抱え上げられ、無理やり引きずり出された為蔵が、かすれた声で激しく怒鳴っていた。その痩せた体には、お鈴によって真っ赤なちゃんちゃんこが着せられ、頭には同色の頭巾が乗せられている。
為蔵は熊ゴロの手によって、店の中央に据えられた特製の高座の上へ、どかりと座らされた。
「おい、お鈴! 熊! これは何の嫌がらせだ! わしをなぶり殺しにする気か!」
為蔵は布団の外の眩しさに目を細め、怒りで土色の顔をいくらか赤く染めながら周囲を見回した。
突如として目に飛び込んできたその光景に、為蔵の毒づきはピタリと止まった。
店の中は、溢れんばかりの人、人、人で埋め尽くされていた。
長屋の住人たちだけではない。男から読み書きを教わっている太助たち子供たちも、全員が一番良い着物を着て、目をらんらんと輝かせて並んでいる。誰もが悲しい顔など一切していない。これ以上ないほど晴れやかで、悪戯が成功した時のようなどこか誇らしげな笑顔で、高座の上の為蔵をじっと見つめていた。
その最前列、酒樽の横に、男が腕を組んで立っていた。
男は驚きで呆然としている為蔵に向かって、ニヤリと片頬をつり上げて笑ってみせた。
「さあ、お待たせいたしました!」
高座の脇で、琵琶法師が緊張の面持ちで一歩前に出た。彼は男と視線を交わすと、覚悟を決めたように大きく息を吸い込み、抱えた琵琶を「ベンベン、ベベン!」と激しく掻き鳴らした。
静まり返った店内に、法師のあの地響きのような、極上の美声が朗々と響き渡る。
「これより、下町一の頑固親父、たぬき屋為蔵殿の――生前大感謝祭を執り行う!」
その声を合図に、男が手にした木槌を振り下ろし、酒樽の蓋を豪快に叩き割った。飛び散る酒の香りと同時に、長屋の連中が一斉にドッと歓声を上げる。
「親方! 還暦おめでとう!」
「今まで美味え蕎麦をありがとうよ!」
降るような拍手と歓声の渦の真ん中で、為蔵は開いた口が塞がらないまま、ただ呆然と、その目には熱い光を浮かべて民衆の顔を見つめていた。
涙と笑いに満ちた、前代未聞の宴が、いま幕を開けた。




