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天下無敵の詠み人知らず  作者: 沢 一人
大御宝を慈しむ
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第二十七話:為蔵の意気地

第二十七話:為蔵の意気地

「……胸の病だ。この分では、今年の冬を越せるかどうか」

 たぬき屋の薄暗い奥の寝所で、町医者が薬箱の紐をきつく結びながら、ぼそりと呟いた。その一言が、狭い部屋の空気を凍りつかせる。

「そんな……嘘だろ、先生。医者なら、何とかしてくれよ!」

 大工の熊ゴロが、医者に掴みかかろうとしたが、すっと身をかわされてしまった。行き場を失った太い手は、悔しそうに自身の頭をかきむしった。医者はただ力なく首を振るだけで、逃げるように土間へと下り、暖簾の向こうへ消えていった。

 残された寝所には、ただ為蔵の浅く苦しげな呼吸の音だけが虚しく響く。

 お鈴は布団の傍らに崩れ落ち、我が胸を両手で強く押さえて身を震わせていた。いつもなら客を小気味よくあしらう彼女の快活な瞳は、今は赤く腫れ上がり、握りしめた手拭いは涙でぐっしょりと濡れそぼっている。床の一点を見つめたまま、唇を噛みしめ声を殺して泣いていた。

 長屋の住人たちも、店の外の壁に背を預け、あるいは地面にしゃがみ込み、一様に眉をひそめて言葉を失っている。誰かが小さくため息を漏らすたび、その重苦しい空気がさらに周囲を侵食していくようだった。

 そこへ、今しがた店の前で医者とすれ違ったばかりの男が、暖簾をひょいと頭で撥ね上げて入ってきた。

「よう、みんなお揃いでどうしたい。蕎麦を一枚、大盛りでくれ。ネギは山盛りな」いつもと変わらぬ、どこか世を拗ねたような、それでいて妙に軽薄な響きを持った声。男はのん気の権化のような顔をして足を踏み入れた。

 土間の隅で荷物台に両肘をついて頭を抱えていた熊ゴロが、血走った目で男を睨みつけた。

「……旦那、あんた、何てツラして入ってきやがる! 親方が、為蔵の親方が、今年の冬を越せねえって医者に言われちまったんだぞ! よくそんな気楽な声が出せるな!」

 熊ゴロの拳が、荷物台の木を激しく叩く。お鈴もまた、すがるような、責めるような複雑な眼差しを男に向け、肩を痛々しくすぼめた。だが、男はそんな張り詰めた空気を完全に無視してみせた。懐から手拭いを取り出し、自分の席の埃を大げさに払う。

「何言ってるんだ、熊。為蔵さんはまだ生きてるぞ。そんなに全員で暗い顔をしてたら、せっかくの出汁の匂いまで腐っちまう。それとも、為蔵さんが倒れたのをいいことに、今日から蕎麦代をタダにして大放出ってな事でもしてくれるのかい?」

「旦那ッ! この期に及んで飯の話かよ!」

 熊ゴロが激昂し、椅子を蹴立てて立ち上がろうとした。その巨体が男に掴みかかろうとした瞬間、奥の薄暗い寝所から、かすれた声が響いた。

「……やかましいや、このド不届き者どもが」

「ごほぉ、ごほっ、ごほ」

 板間の奥、薄い布団に横たわっていた為蔵が、激しく咳き込んだ。その顔面はいつも以上に痩せこけ、肌は土色を帯びている。上体を起こす余裕すらなく、ただ苦しげに息を荒げている。

 男はといえば、平然とした顔で寝所の縁側まで歩み寄り、どかりと腰を下ろした。

「ほら見ろ、熊。勝手に仏にしちゃいけないよ。為蔵さんはな、死ぬ前に三途の川の船頭に『お前の打つ蕎麦は日本一だ』って言わせなきゃならないんだ。それを成し遂げるまでは、あの世の門も閉まったままよ」

 為蔵は、横たわったままじろりと男を睨みつけた。声を発する力は残っていないようだが、その眼光だけは、持ち前の意固地さを失っていなかった。

「為蔵さん、熊の野郎が大騒ぎしてるが、医者もずいぶんと景気のいい予言を残していったらしいじゃないか。今年の冬を越せるかどうか、だって?」

 男は真面目な顔をして首を振った。

「俺はな、為蔵さんに耳寄りの話を伝えに来たんだ。宮廷の古い秘術にな、胸の病をまたたく間に吹き飛ばすお呪(まじな)いがある」

 熊ゴロが怪訝な顔で聞き耳を立てる。お鈴も涙を拭うのを忘れ、男の顔を凝視した。

「それはな、南を向いて、右足だけで立ちながら、冷たい泥水を大釜で三杯分、頭から一気に被るんだ。そうして『我が胸の病、内裏の池に飛んでいけ』と三回叫ぶ。これでどんな重病も一発で治ると、確か古い巻物に書いてあった」

 沈黙が流れた。

 次の瞬間、横たわっていた為蔵が、怒りで顔をかすかに赤く染め、枕元の木枕を手探りで男の方へ押しやろうとした。

「……んなわけ、ねえだろ……凍え死ぬわ、不届き者が……」

 途切れ途切れながらも、怒りの言葉を絞り出す為蔵。男はそれをひらりとかわして笑う。

「おや、文句が言えるくらいには元気じゃないか。さすがは下町一の頑固親父だ」

 その様子を見て、お鈴がハッと息を呑んだ。     男の突拍子もない冗談が、絶望で凝り固まっていた父親の身体に、無理やり生気を呼び戻したのだと気づいたからだ。お鈴の泣き濡れていた瞳に、かすかな驚きと、陰りのない男への深い感謝の光が宿った。

 熊ゴロもまた、ぽかんと口を開けた後、頭をかき、荷物台に腰を落とした。

「なんだよ、旦那……驚かせやがって。だが、親方が声を絞り出せるようになって良かったぜ」

 そこへ、店の戸口から、おずおずと小さな人影がいくつも入ってきた。男が普段、読み書きや算盤を教えている長屋の子供たちだった。先頭に立つ太助は、手にした小さな木簡を大事そうに抱え、不安そうに為蔵の様子を窺っている。子供たちは学ぶことが大好きで、今日も男から新しい文字を教わるのを楽しみに集まってきたのだ。しかし、たぬき屋の異変を感じ取り、誰もが小さな肩をすくめて固まっていた。

 男は子供たちの元へと歩み寄り、太助の頭をぽんと叩いた。

「よし、太助。お前たちに一つ、大事な役目をやる。為蔵じいちゃんを一番大きく笑わせた奴から順に、今日はお前たちの知りたい、一番かっこいい文字を教えてやる。どんな文字がいい? 『龍』か? 『鳳凰』か?」

 子供たちの目が、一瞬でらんらんと輝き出した。学ぶ意欲に満ちあふれた彼らにとって、新しい文字を教えてもらえることほど、最高のご褒美はなかった。

「俺、じいちゃん笑わせる! 龍の文字、書きたい!」

 太助が元気よく手を挙げ、病床の為蔵に向かって、教わったばかりの可笑しな手解(てほど)きを真似して見せ始めた。他の子供たちも競い合うようにして、為蔵の枕元で身振り手振りを交えて賑やかに騒ぎ立てる。

 為蔵は布団の中で目を細め、子供たちの無邪気な笑顔と、学ぶことへの純粋な熱気に包まれ、かすかに口元を緩めた。

「……ガキどもめ……旦那、変なことを教えるんじゃ、ねえよ……」

 たぬき屋の中に、いつもの賑やかな笑い声が戻ってきた。

 お鈴は竈の火を熾(おこ)し直し、嬉しそうに涙を袖で拭った。熊ゴロも「よし、俺が親方の代わりに、最高の蕎麦を打ってやる!」と袖をまくり上げ、早速粉をこぼして子供たちに笑われている。

 賑やかになった店内を見渡しながら、男はニヤリと笑い、竈から立ち上る出汁の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 暗い顔をして、ウジウジと涙を流していても、病の悪霊が喜ぶだけだ。この愛すべき民たちの笑顔こそが、何よりの薬であり、この国の本当の宝なのだから。

 男の瞳の奥には、哀しみを包み込むような、深く温かい光が灯っていた。





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