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天下無敵の詠み人知らず  作者: 沢 一人
大御宝を慈しむ
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第二十六話:【宮廷】残された筆跡

大変な努力をして、素晴らしい仕事を成し遂げる。

しかし、誰にも認められないまま死んでいった「詠み人知らず」なんてかっこいいのだろう。そんな人に僕は憧れるのです。

第二十六話:【宮廷】残された筆跡

 内裏の片隅にある紀貫之の執務室には、重苦しい沈黙が垂れ込めていた。

 床に伏して平伏しているのは、川原の捜索から戻った検非違使の下役人たちである。

 その姿は見る影もなかった。着物は引き裂かれ、泥水が乾いてこびりつき、顔や腕には生々しい擦り傷がいくつも走っている。お上から与えられた権力の威厳など、どこにも残っていなかった。

 貫之が冷徹な視線を向けると、下役人の筆頭は床に額をこすりつけた。

「はっ……申し訳ございませぬ。我らはお上の命に従い、例の男を捜索していたところに、着物の下に凶器を隠した物々しい男どもが絡んできたのでございます。あやつら、我らを見るや『国経の旦那のシマを荒らす気か』と刃物をチラつかせ……」

「それで、我慢がならずに刀を抜いたか」

「恐れながら、お上の威光を汚すわけにはいかず……しかし、お互いに一歩も引かぬ泥仕合となり、気づけば辺りにいた野次馬どもに笑われる始末。肝心の探すべき男の姿は、影も形もございませんでした」

 貫之は深くため息をつき、手元にある硯の端をじっと見つめた。

 国経の私兵どもと我が上位の官人から派遣された検非違使が、同じ場所で同じ男を追っているなど、少し考えればわかること。それを、示し合わせたかのように鉢合わせ、勝手に潰し合うとは⋯⋯。

 いや、と貫之は思い直す。これは単なる偶然ではない。あの川原には、男がいたのだ。そして、宮廷の役人と下町の荒くれ者という、決して相容れない二つの勢力が同時に自分を追っていることに気づき、ほんの少しの言葉か挙動で、両者を衝突させるように仕向けたに違いない。

「もうよい。下がって傷を癒せ。これ以上、市井で無駄な騒ぎを起こすことは許さぬ」

 検非違使の一隊が這うようにして部屋を退出していくと、貫之は一人、灯火の前に取り残された。

 力づくの捜索は完全に裏目に出ている。国経の私兵が動いている以上、これ以上荒っぽい真似をすれば、宮廷内の権力闘争にまで火が付きかねない。あの男は、下町の雑踏の中に完璧に溶け込み、お上の動きを上空から見下ろすようにして手玉に取っている。

 ならば、こちらも頭脳で応じるまで。貫之が目をつけたのは、男の過去だった。

 あの反故紙に書かれた、あまりにも見事な和歌。臨機応変に国経の密貿易の使者を捌いたあの手際。ただの市井の浮浪者に、そのような真似ができるはずがない。男はかつて、この宮廷の、それも文字を扱う中枢にいたはずだ。

 貫之は立ち上がり、内裏のさらに奥深く、古い墨の匂いが立ち込める図書寮(ずしょりょう)へと足を運んだ。ここは、何世代にもわたる宮廷の公文書や、古今のあらゆる記録が眠る巨大な書庫である。

「過去十年分の公文書の筆記、あるいは和歌の代筆に携わっていた者の記録を、すべて出せ」

 図書寮の年老いた役人は、貫之のただならぬ気迫に圧され、埃をかぶった古い巻物をいくつも机の上に積み上げた。

 そこから、貫之の孤独な作業が始まった。

 深夜、自室に戻った貫之は、油の灯火を限界まで明るく灯し、手に入れた過去の記録を次々と紐解いていった。

 彼の目の前には、現在、あの琵琶法師の事件の現場から回収された、反故紙の歌が広げられている。

「……これではない。これも違う。これは線が凡庸だ」

 何十人もの、かつて宮廷に籍を置いていた能書家たちの文字をめくっていく。どれも端正で美しい文字だが、あの反故紙の歌が持つ、底知れない気位の高さには遠く及ばない。

 夜が更け、東の空がわずかに白み始めた頃だった。貫之の手が、ある一つの巻物の前でピタリと止まった。それは、五年前に若き日のある役人が、内裏の年中行事のために書き残した、ごく平凡な公文書の控えだった。

 貫之の目が、その文字の一点に釘付けになる。「……これは」

 貫之は喉の渇きを忘れ、息を詰めてその文字を見つめた。例の男が書いた反故紙の歌を横に並べる。一見すると、両者はおよそ異なる文字に見えた。

 五年前の公文書の文字は、宮廷の規則に則った、寸分の乱れもない端正な漢文の楷書である。一方で、この反故紙の歌は、下町の酔いどれが破れかぶれで書き殴ったような、ひらがな(仮名)の入り混じった、だらしない崩し字だ。しかし、天才歌人であり、同時に当代随一の書家でもある紀貫之の目は欺けなかった。

「文字の形は変えられても……骨組みまでは変えられぬ」

 貫之は筆を手に取り、二つの文字の共通点を頭の中でなぞり始めた。

 例えば、「川」という文字の三画目。五年前の書面でも、現在の崩し字でも、最後の払いの瞬間、わずかに筆圧を抜きながら左へ湾曲させる独特の癖がある。さらに、「国」という文字の構え。四角い枠の左下の角を、ほんのわずかに突き出すようにして筆を止める。これは、通常の宮廷の教育では教わらない、その男個人の強固な身体の癖であった。

「間違いない……」

 貫之は、鳥肌が立つのを抑えて、その二つの書面を見比べ続けた。

 回収された反故紙の文字は、わざと下品に、わざと下手に見えるように偽装されている。しかし、その線の収束、余白の持たせ方、筆の走る速度には、天性の美意識が隠しきれずに染み出していた。

 どんなに泥を塗っても、本物の真珠の輝きが消せないように、文字の底にある魂が、高らかに自己を主張していたのだ。

 古い巻物の端に記された、その役人の名は、すでに抹消されるようにして線が引かれていた。だが、貫之にはその男の顔が、文字を通じてはっきりと見えた気がした。

「お前だったのか」

 貫之は呟き、背もたれに身を預けた。

 胸の中に湧き上がってきたのは、捕縛への執念だけではなかった。同じ言葉を扱い、文字の美を解する表現者として、その比類なき筆跡に対する、畏怖に似た感動であった。

 これほどの腕を持ちながら、なぜ宮廷を去った。なぜ下町の泥にまみれ、お上をそそのかすような真似を企てる……。お前は何を拒み、何を求めているのだ。

 男が仕掛けた和歌は、宮廷の腐敗を暴き、民を苦しめる権力者を嘲笑っていた。それは単なる反逆ではない。この国の歪んだあり方に対する、言葉による果たし状のようでもあった。

 貫之は灯火をふっと吹き消した。部屋に薄暗い朝の光が満ちていく。

「ついに、お前の尻尾を掴んだぞ」

 貫之の目に、冷徹な知性の光が宿る。

 正体が判明した以上、もう網を闇雲に広げる必要はない。男が言葉を紡ぎ、下町の民の中に潜んでいるのなら、その言葉を使って、今度はこちらから罠を仕掛ける番だった。

 宮廷の天才・紀貫之と、下町の無名たる天才。二人の距離が、文字という一本の糸によって、決定的に縮まった瞬間であった。


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