第二十二話:【宮廷】仮名の源流
第二十二話:【宮廷】仮名の源流
宮廷の奥深く、図書寮の薄暗い書庫に、紀貫之の厳しい声が響いていた。
机の上に広げられているのは、先日の下町を震撼させた辻芸琵琶歌の「裏紙」である。そこに躍る圧倒的な達筆を凝視しながら、貫之は呼び出された中年の役人を鋭く睨みつけた。
「隠しても無駄だ。この紙の出所を調べたところ、お前が数日前に持ち出したものだと分かっている。これを誰に渡した? 誰がこの文字を書いたのだ」
役人は恐怖にガタガタと震え、床に額を擦り付けた。
「お、お許しください、貫之様! 昔の同僚に脅されて、つい古紙を回してしまったのです……。あいつです、数年前までここに席を置いていた、あのとんでもなく不真面目な男です!」
「不真面目な男?」
貫之の問いに、役人は忌々しそうに、呆れ果てた顔で語り出した。
「はい。文字だけは神がかった達筆で、上層部もクビにできずに手を焼いていた男です。とにかく公文書を書くのが大嫌いでしてな。ある日も、お上の堅い公文書を書く手を途中でピタッと休めて、机でブツブツと独り言を言い始めたのです」
役人は当時の男の口真似をするように、声をひそめた。
『なんで大和の文章を、わざわざ唐の漢文で書かなきゃダメなんだ? 堅苦しくて、飯がまずくなる』
「……そんなことを言ったのか」
貫之の目が驚きにじっと見開かれる。役人は大きく頷いた。
「ええ! それで急に『えぇいやっちまえ』と叫んだかと思うと、筆を躍らせて、お上の大事な報告書のなかに、女子供の使うような『ひらがな』を、まるで流れる川のようにサラサラと混ぜて書きおったのです! 朝廷を愚弄しているとしか思えん悪ふざけです。その時没収した問題の書が、まだ奥の棚に……」
「それを見せろ」
貫之は促し、埃を被った古い巻物を開いた。
次の瞬間、貫之の息が止まった。
役人たちが「悪ふざけ」と切り捨てたその書には、漢字の角張った硬さを流麗に崩し、人間の息遣いや感情がそのまま乗ったような、息をのむほど美しい「和漢混交」の文字が躍っていた。
今、貫之は醍醐天皇の命を受け、『古今和歌集』の編纂という大事業の真っ只中にある。公の勅撰集である以上、序文は漢文(真名序)で書くのが当然という宮廷の空気に、貫之は激しい葛藤を抱えていた。
(なぜ、我らの和歌の心を、異国の言葉で語らねばならんのか――)と。
だが、目の前にあるこの男の悪ふざけは、その答えを何年も前に見抜いていた。
「……これだ」
貫之の指先が、男の書いたひらがなをそっと揺れるように追う。
言葉に血を通わせる。お上の呪縛から言葉を解き放つ。古今集の序文は、この流れるような『ひらがな』で、仮名序として書くべきだ。貫之の胸の奥で、何かが激しく覚醒した。
「貫之様? やはり不愉快な悪筆でございますか。すぐに処分させますが……」
「触るな!」
貫之の怒声に役人が飛び上がる。貫之は巻物を大切そうに巻き直すと、懐にしっかりと収めた。その目は、もはや単なる罪人を追う役人のものではなかった。
「この男は今、どこにいる」
「は、はあ……噂では、下町の『たぬき屋』という怪しげな居酒屋のあたりで、のんきに昼寝をしているのを見た者がいるとか……」
「下町か」
貫之は毅然と立ち上がり、書庫を出た。
私はこの男を、単なる罪人として捕らえるのではない。この国の、新しい言葉の扉を一緒に開くために――私はどうしても、彼を見つけ出さねばならない。




