第二十一話:【下町】イカ墨の武勇伝
第二十一話:【下町】イカ墨の武勇伝
うっすらと、お鈴が目を開けた。
白んできた朝の光のなか、目の前には、髪を振り乱して顔や手まで真っ黒に汚れた男の顔がある。
男はお鈴が目を覚ましたことに気づくと、これ以上ないほど真剣な顔でお鈴の手をそっと握り、厳かに口を開いた。
「安心しろお鈴。お前が寝てる間に、俺は『たぬき屋』の新名物のために、命懸けの夜釣りへ行ってきた。お前がハアハア言ってる頃、俺は下町の海で、こ〜んなに大きな、化け物みたいな巨大イカと大格闘を繰り広げていたんだ」
お鈴は一瞬ぽかんとした。男は手を大きく広げ、天井を仰ぎながら熱弁を続ける。
「いや、本当に凄かったんだ。海面が割れたと思ったら、家一軒ぶんほどもある巨大イカがぬうっと現れてな。十本の足を振り回して俺に襲いかかってきた。俺はすかさず包丁を抜いて、奴の触手を一本ずつ切り落としたんだが、最後の最後、奴が放った必殺の『イカ墨大噴射』をモロに食らっちまった。だから、俺の顔も耳の後ろも、この通り真っ黒ってわけだ。惜しくも逃げられたが、奴は今頃、海で泣いてるはずさ」
お鈴は男の真っ黒な顔と、大真面目な身振り手振りをじっと見つめていたが、胸の奥からこみ上げてくるおかしさに耐えきれず、ついに大爆笑してしまった。
「……あはは! 何よそれ、嘘ばっかり! だいたい下町に海は無いし、そんな大きなイカがいるわけないでしょ! おでこの墨、それ完全に筆の跡じゃない!」
お鈴は布団の上で身をよじって笑い、その勢いで頬に赤みが戻っていく。
「ちぇっ、見破られたか。まぁ、減らず口を叩いてそれだけ笑えるなら、もう安心だな」
男もお鈴の笑顔を見て、ようやく生きた心地がしたように、ホッと肩の力を抜いて不敵に笑った。横でハラハラしていた為蔵も、涙を拭きながら「人騒がせな奴め」と安堵の息を漏らす。
男は、自分の真っ黒に汚れた手のひらをじっと見つめ、ぽつり、ぽつりと話し出した。
「言葉ってものは、不思議なもんだな。人を勇気づけたり、悲しませたり、笑わせたり、落ち込ませたり……」
その横顔は、いつもの悪ふざけをしている時のものとは違い、どこか遠くを見つめるように穏やかだった。
「お上の偉い奴らはさ、人を脅したり、縛り付けたり、自分たちを大きく見せるために言葉を使う。だけどよ、そんな呪いみたいな言葉のために、俺たちの心がすり減らされるなんて馬鹿げてるだろ。言葉ってのは本来、そういう窮屈なものじゃないはずだ。今のお前みたいにさ、苦しい時にフッと肩の力を抜いて、目の前のやつをニヤリと笑わせる。そのためにこそ、言葉はあるんじゃないかって思うんだよな」
お鈴は、まだ少し熱の残る手で布団を握り締めながら、男の言葉を一つ一つ噛みしめるように聞いていた。
「……変な男。あんたの言葉は、嘘ばっかりだけど……不思議と、ちっとも寒くないわね」
「それ褒めてんの?」
「褒めてるに決まってるでしょ」
お鈴が少し呆れたように言うと、男は待ってましたとばかりに立ち上がり、大げさに一礼してみせた。
「これは、これは、お褒め頂き、恐悦至極に存じ奉ります……」
その芝居がかった格好に、お鈴はまたクスッと笑う。男は満足そうに不敵な笑みを浮かべ、頭を掻いた。
「さあて、お鈴の笑顔も戻ったことだし、俺はそろそろこの『イカ墨』を洗い流してくるわ。為蔵、約束の朝蕎麦、特上で頼むぞ!」




