第二十話:【下町】言葉の世直し
第二十話:【下町】言葉の世直し
「お、お鈴……! しっかりしろ、お鈴……!」
居酒屋「たぬき屋」の奥の小部屋で、主の為蔵はがくがくと膝を震わせ、半泣きでお鈴の体をさすっていた。
布団のうえで横たわるお鈴は、顔を真っ赤に染め、激しく咳き込んでいる。いつもなら頼りになる熊の姿は、いまここにはない。
「おい為蔵、落ち着け。まずは薬だ」
男が素早くお鈴の額に濡れ手拭いを当てるが、懐を探しても銭は無い。先日の餞別は、近所の子どもたちに駄菓子を大盤振る舞いして使い果たし、スッカンピンであった。為蔵の手元にも金はない。
「これじゃ、お鈴の薬が買えねえな……」
為蔵は頭を抱えてうなだれた。
そのとき、店の薄暗い戸を叩く音がした。
「……満月の夜の御人、おられるか」
現れたのは、あの夜、古いお堂の影で血生臭い怨霊の唄を唸っていた、放浪の琵琶法師であった。法師は男の前に深く頭を下げ、切々と語り出した。
「あの日、あなたの背中を見て、深く考えを改めました。私はもう、誰かを呪うような血なまぐさい戦乱の唄は捨てた。己が本当に歌うべき、平穏を願う心を求めて、あなたを訪ねて参った」
男は法師の顔をじっと見つめ、ふと、その濁りのない瞳の奥に光があることに気づいた。ニヤリと笑い、男は語りかける。
「へえ、怨霊を歌うのをやめた。そいつは殊勝なこったが……あんた、お堂の暗がりでも、俺が頭の上で手を振ったのがちゃんと見えてたろ?」
法師は一瞬、肩を強張らせた。
「……そ、それは、長年の勘というもので、心霊の目で見ておるのです」
「心霊の目ねえ。じゃあ、なんであんた、さっきから壁の『お品書き』をじっと見てるんだ?」
「うっ……!」法師は言葉に詰まり、冷や汗を流した。
男はさらに身を乗り出し、楽しげに追い詰める。
「おまけにその指、撥を握るタコだけじゃねえな。筆だこがガッツリ残ってる。ただの流しの法師が、毎日必死に筆を握る理由なんて一つしかねえ。お上の役人登用試験だ。なぁ、どこのお坊ちゃんだ? 育ちの良さが着物の裾から隠しきれてねえぞ」
逃げ場を完全に塞がれ、法師はついに観念したように頭の頭巾をむしり取った。
「……参りました! お上の役人どもすら誰も気づかなかったというのに! お察しの通り、私は元々金持ちの商家の駄目息子です! 役人を志望して必死に勉強していたのですが、宮廷の試験にまるで受からず、ついに親から『この穀潰しが!』と勘当されてこのザマです。目が見えぬ哀れな法師を装わねば、世間の風当たりが強くて、……」
「文字は読めるか?」
「一通りなら、人並み以上に!」ヤケクソ気味に法師が胸を張る。
男は手を叩いて笑った。
「ちょうどいい。文字が読めて、極上の声を持つ歌い手が来た。おい、法師、図書寮の役人のところへ走れ、三年前の同僚から頼まれたと言えば判る。あいつに言って、役所に転がっている裏紙をありったけ持ってこい」
法師は夜の街を走り、男の指示通り、図書寮の役人から大量の裏紙を受け取って戻ってきた。息を切らせた法師は、裏紙の束を床に置くなり訴えた。
「持ってきました……! ですが、走ったら腹が減って動けませぬ。何か食わせてくれ、死んでしまう」
「ったく、人使いの荒い……」
為蔵はぶつぶつ文句を言いながらも、厨房から握り飯を一つ握ってきて法師に与えた。法師はそれを涙目で頬張りながら、男の手元を凝視した。
男は床にその裏紙を広げると、凄まじい気迫で筆を執った。
男が書き殴り始めたのは、宮廷を揺るがしている、最高に下世話で痛烈な噂の色恋沙汰。大納言・藤原国経が、高齢になってからようやく娶った若く美しい嫁を、なんと甥の左大臣・藤原時平にそっくりそのまま寝取られたという、前代未聞の醜聞であった。
「よし、これを、お前の琵琶に乗せて下町で盛大にぶち撒けろ!」
手渡された裏紙の台本を見て、元・役人志望の法師は、握り飯を喉に詰まらせそうになるほどの衝撃を受けた。
お上の権力者たちの醜態を抜群の滑稽味で風刺している。何より、裏紙に躍る文字の凄まじさ。宮廷の試験で見てきたどんな秀才の文字よりも、圧倒的に美しく、魂を揺さぶる光を放っていた。
「……これほどの文字、これほどの言葉、見たことがない。これぞ、私が求めていた、生きた人間の唄だ!」
法師は目を輝かせ、琵琶を抱えて下町の境内へと飛び出していった。
◇
――ベンベン、ベベン!
お上の見回りが来ない闇市の真ん中で、激しくも小気味よい琵琶の音が響き渡る。
法師が朗々と歌い始めたのは、大物の国経が、若い嫁を寝取られて恥をさらした滑稽な姿。
「老いたる国経、嘆きに沈む~♪ 若き愛妻、時平に奪われ~♪ 権力あっても嫁は逃げる、哀れなるかな大納言~♪」
その痛烈で、最高に面白い唄が始まった瞬間、日頃から宮廷の貴族たちに虐げられていた下町の群衆が、またたく間に膨れ上がった。
「おい、聴いたか! あの偉そうな国経のじいさん、時平に嫁を寝取られたってよ!」
「ざまあみろ! いつもふんぞり返ってるくせに、身内に裏切られてやんの!」
境内は割れんばかりの大爆笑と熱狂の渦に包まれた。「よくぞ言ってくれた!」と、すさまじい量のお賽銭(小銭)が、雨あられと法師の足元へ投げ込まれる。
しかし、大騒ぎを察知した役人の追手の手が、すぐそこまで迫っていた。
「お上を愚弄する不届き者め! 捕らえよ!」
「ここまでだ!」
男は駆けつけ、法師の足元にうず高く積まれたお賽銭の山から、お鈴の薬代として必要な分だけを素早くひっこ抜いた。そして残りの大金を、迫り来る追手を攪乱するように、民衆の海へ向かって一気にぶち撒けた。
「これはお前ら自身の、大事な稼ぎだ! お上の犬どもに一銭だって渡すんじゃねえぞ、みんなで拾ってずらかれ!」
「うおおお!」と民衆が金に群がり、追手の役人たちは足止めを食らう。そのドサクサに紛れ、男と法師は、夜の闇の向こうへ鮮やかに駆け抜けていった。
◇
夜明け前、たぬき屋の奥。
必死の思いで手に入れた上等な漢方薬を煎じ、お鈴に飲ませる。
男の手は、激しい執筆と逃走のなかで、墨と冷や汗で真っ黒に汚れていた。
薬が効いたのか、お鈴の荒かった呼吸がようやく収まっていく。
うっすらと、お鈴が目を開けた。目の前には、いつも飄々としているはずの男が、髪を振り乱し、息を切らせて自分の手を握っている。為蔵もその横で安堵の涙を流していた。
そのあまりにも必死で、おかしな男の姿を見て、お鈴の青白い唇が、弱々しくクスッと、小さく綻んだ。




