第十九話:【宮廷】うわべの夜
第十九話:【宮廷】うわべの夜
「夜分遅くに、失礼いたします」
御簾を掲げて入ってきたのは、先ほど地籍書類の束を届けていった、あの図書寮の下級役人であった。
貫之は据わった目のまま、ゆっくりと男を見据えた。
自らの右手のひらは、先ほど懐にねじ込んだあの裏紙の感触を記憶している。衣の奥で、紙がじっとりと己の汗を吸っていくのが分かった。ばれるわけにはいかない。宮廷の最高峰たる自分が、このような不穏な破調の恋歌に心を乱され、それを盗むように隠したなどと知られれば、いかなる醜聞になるか。
「……何か用か。地籍の書類なら、すでに点検を終えて決裁箱に収めたが」
貫之は声音から一切の動揺を削ぎ落とし、事務的な冷たさだけを乗せて言った。
対する役人の顔は、あからさまに強張っていた。その額には、夜の冷気には似合わない、大粒の汗が浮かんでいる。
男の衣服の袖のなかで、湿った手のひらを、きつく握りしめ、心臓は、肋骨を打ち破らんばかりに激しく脈打っていた。
(……地籍の書類は、決裁箱に収められた……? ということは、偽造は見破られなかったのか。あの人の完璧な論理の罠を、紀様ですら見抜けなかった……!)
まずは、最大の恐怖から解放されたことへの猛烈な安堵が役人を包んだ。もしここで偽造を糾弾されていれば、自分は即座に検非違使に引き渡され、一族もろとも破滅していたところだ。
安堵のあまり、膝の力が抜けそうになるのを必死に堪える。しかし、安堵したのも束の間、すぐさま次の、そして最も個人的で切実な恐怖が鎌首をもたげた。
(……待て。偽造書類が通ったのなら、その一番下にあった、あの嵐の夜の和歌はどうなった……!?)
男の視線が、貫之の顔をうかがうようでいて、その実は机の上の決裁箱、そして貫之の手元を必死に彷徨い始める。
本当のことは言えない。あの男から預かった書類の底に、かつて自分がもらった大切な裏紙を、間違えて紛れ込ませてしまいました、などと口が裂けても言えるはずがなかった。
「いえ……。先ほど納めました書類のなかに、もしや、公務に関わりのない雑紙が紛れ込んでいなかったかと、急に不安になりまして。私の不手際で、紀様のお手を煩わせてはいないかと、回収に参った次第です」
うわべだけの、よそよそしい釈明。だが、貫之の耳はその奥にある微かな声の震えを逃さなかった。
(雑紙、だと? やはりこの男、あの和歌の存在を知っている。知っていて、わざわざ取り戻しに来たか)
貫之は椅子の背にもたれかかり、あえて退屈そうな表情を作ってみせた。
「雑紙など、一枚も混ざってはいなかった。すべて正当な公文書として検分した。お前の思い違いだろう」
(嘘だ、そんなはずはない!)と役人の心が叫びをあげる。しかし、目の前の上司の表情からは、何の感情も読み取れない。これ以上しつこく食い下がれば、せっかく今しがた見破られずに済んだ地籍書類そのものに、再び疑惑の目を向けられかねない。男の賭けている大博劇を、自分のうっかりで瓦解させるわけにはいかなかった。
「左様でございますか……。大変な非礼、平にご容赦を。私の気の迷いであったようです」
役人は深々と頭を下げた。その拍子に、床にポツリと、男の顎から焦燥の汗が滴り落ちた。
貫之はその濡れた跡を冷ややかに見つめながら、確信していた。
(この役人は、あの文字の主を知っている。あの『文字の化け物』と、地続きの場所にいる)
「夜も更けた。もう下がりなさい」
「は……。失礼いたします」
役人は、愛おしいあの和歌がどこへ消えたのかという未練と焦燥を、貫之の懐に走る不審な視線ににじませながら、這うようにして執務室を去っていった。御簾(みす[高級なすだれ])が揺れ、完全に気配が消える。
「ふう……」
貫之は長く、重い息を吐き出し、机の上に両手をついた。広げた手のひらは、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
彼はすぐに懐からあの裏紙を取り出し、灯火に近づけた。
もう一度、凝視する。
ただの恋歌ではない。裏紙の端のほうに、極小の文字で、殴り書きのような跡があるのを見落としていた。
『本日、上司の顔がナマズに似ているため、太政官への報告書作成を放棄す』
あまりにも不敬。あまりにも不真面目。
しかし、その一文字一文字が、恐ろしいほどの均衡を保った、見たこともない達筆で躍動している。
貫之の口元が、歪んだ。
あのよそよそしかった役人の二段階の動揺、そして、このふざけた裏紙の記録。全ての線が、一つの場所に繋がっていく。
「図書寮、か……」
噂の男がかつて籍を置き、あの役人が今も勤める、宮廷の文書の墓場。
明日、大義名分を作ってあの役所へ乗り込んでやる。数年前にそこにいたという、とんでもない達筆で、とんでもなく不真面目な男の正体を、この手で暴くために。
貫之の瞳に、歌人としての、そして官僚としての執念の炎が、妖しく灯っていた。




