第十八話:【宮廷】拒絶と平伏
第十八話:【宮廷】拒絶と平伏
「……噂の男の、文字か……。いや、そんな筈はない」
引いた椅子のうえで、紀貫之はしばらく身動きがとれなかった。執務室の冷気が、粟立つ肌にじっとりとまとわりつく。
いま、貫之の震える手元に残されているのは、剥き出しの情念を叩きつけたあの一枚の反故紙だけであった。
最初に貫之を襲ったのは、言い知れぬ「怒り」だった。公の決裁箱に、このようなはしたない私物、しかも定型をすべて蹴破った破調の恋歌を混ぜ込むとは、図書寮の管理の弛みに対する怒りが、ふつふつと湧き上がる。何より、磨き抜かれた伝統を重んじる歌人としての美意識が、その掠れた野生的な筆致を激しく拒絶した。
「形をなさぬ、ただの殴り書きだ。このようなものは、歌とは呼べぬ」
吐き捨てるように呟き、その不届きな紙を引き破って捨てようとした。しかし、指先がさらにその墨痕に触れた瞬間、言葉の調べが、恐ろしい速度を持って脳裏で鳴り響き始めた。
『人の身もならはしものをあはずしていざこころみん恋ひや死ぬると』
……否。ただの悪筆ではない。宮廷歌人であれば「卑俗」として真っ先に削ぎ落とすはずの、張り裂けそうな人間の心臓の音が、生の命の匂いが、紙面から圧倒的な質量を伴って脈打っている。
貫之は震える手で、その殴り書きの文字をもう一度凝視した。
紙の煤け具合、墨のわずかな色の褪せ方。それは、ここ最近のものではない。数年前に書かれたものだ。当時、採用されずに捨てられたはずの裏紙――誰かが雑紙に書き殴った、ただの反故。それが、なぜ捨てられもせず、何年もの時を経て、今この場所に紛れ込んでいたのか。
貫之が図書寮へ配属変えになった頃には、すでにその男の姿はなかった。ただ、伝説のように語られる噂だけが残っていた。「文字の化け物がいた」「宮廷の型をすべて嘲笑うような筆を持つ男がいた」と。直接の面識はない。顔も知らない。しかしその噂に残る筆跡の癖が、今目の前にある反故紙と、どこか似ている気がしてならなかった。
(まさか、本当にその男が書いたものなのか……。いや、確信などない)
偶然にしては出来過ぎている。だが、誰が、何の目的でこの過去の破片を紛れ込ませたのか、その意図が全く見えない。底知れぬ不気味さが、嫉妬とともに貫之の身を内側から震わせた。
自分たちが血を吐くような思いで言葉を削り、お上の定めた小賢しい規則の檻の中で紡いできた表現。それが、誰とも知れぬ男が数年前に、ただの裏紙に放り捨てたはずの一息の歌の前に、まるで中身のない張り子の虎のように虚しく思えてしまう。
言葉の創り手としての矜持が音を立てて崩れていく。ただの古紙に遺された、数年前の亡霊のような才の気配と、それが今ここにある不可解さに、貫之は激しく戦慄していた。
あまりの衝撃と謎に頭を殴られ、思考を奪われたまま、ただ椅子に縛り付けられたように固まる。
ガタタ、と不自然な音を立てて、執務室の御簾が揺れたのは、まさにその時だった。夜風ではない。廊下の向こうから、普段の巡回とは明らかに違う、忍び寄るような足音がこちらへ近づいてくる気配がする。
貫之の身体がピタリと凍りついた。
迫り来る足音。息の詰まるような緊迫のなか、貫之は吸い込まれるように手を動かした。せめて、手元にあるこの真実の破片だけは、誰の目にも触れさせてはならない。
彼はその裏紙の反故紙を素早く折り畳むと、自らの懐へと深く、滑り込ませた。そして、懐の紙をそっと押さえ、誰もいない闇の向こうを、鋭く見据えた。




