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天下無敵の詠み人知らず  作者: 沢 一人
文字は民の笑顔のために
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第十七話:【宮廷】残された墨痕

第十七話:【宮廷】残された墨痕

 夜の図書寮は、底冷えがする。

 仄暗い灯火のふもとで、ある下級役人は、手元の書類をじっと見つめていた。それは今日の昼間、宮廷を去った「あの男」から、役所の裏口で密かに手渡されたものだった。下町一帯の土地収公を企むお上の裏をかき、計画を内部から瓦解させるための、完璧な論理で偽造された図書寮の古い地籍書類である。

 数年ぶりに目の前に現れた男は、以前と変わらず飄々としていた。

「よう、生きてたか」

「……貴方こそ。風の噂も聞こえないから、とっくにどこかで野垂れ死んだのかと思っていましたよ」

「ひどい言われようだな。まあ、見ての通りしぶとく生きてるさ。――それより、悪いな。お上の決裁箱に、こいつを黙って混ぜ込んでおいてくれ」

 男はそう言って不敵に笑い、書類の束を押し付けて去っていった。お上の檻を蹴破って出て行ったあの頃のまま、何も変わっていない後ろ姿だった。

 下級役人は、男から託されたその書類を、深夜の誰もいない執務室で上層部への提出箱へと忍び込ませようとしていた。発覚すれば自らの身も危うい。しかし、彼には男の頼みを断る気など毛頭なかった。なぜなら、あの男に一生返せないほどの恩義があったからだ。

 役人は書類を抱えながら、数年前に自分が絶望の淵にいた、あの嵐の夜を思い出していた。

 当時、彼は宮廷の派閥争いに巻き込まれ、恋に破れ、この図書寮の片隅で一人、声を殺して泣いていた。そこにめんどくさそうに歩み寄ってきた男は、彼の涙で濡れた顔を鼻で笑い、こう言ったのだ。

「お前なあ、お上が決めた小賢しい文字のルールなんか気にしてるから、心が腐るんだよ。言葉ってのはな、身分の高い奴らが偉そうにするためにあるんじゃねえ。……目の前の、お前みたいな情けねえ奴の心を叫ぶためにあるんだ」

 男は近くにあった下書き用の雑な紙をひったくると、端正な表の文字からは想像もつかない激しい筆致で、裏面に文字を叩きつけた。それは、恋に破れた彼の、張り裂けそうな胸の内を代弁する歌だった。宮廷の型をすべて無視しているのに、言葉の調べが、恐ろしいほどの美しさで心臓を直接突き刺してくる。役人はその文字の凄みと、男の不器用な救いに、声を上げて泣いたのだった。

(あの人は、今もあの人のままだ。お上を相手に、また大博打を仕駆けようとしている)

 下級役人は小さく息を漏らし、男から預かった書類の束を、上層部への提出箱の底へと収めた。

 男がその書類を束ねる際、参照用の古い雑紙の山の中から、かつて自分のために書き殴ってくれたあの嵐の夜の「反故紙」を、何気なく書類の束の一番下に紛れ込ませてしまっていたことには、まだ気づいていなかった。

(あの人らしいや。どうか、今度の博打も勝ってくれよ)

 心の中で男の無事を祈りながら、役人は夜の執務室を後にした。

◇

 ところ変わり、内裏の一角。

 各地から集まった歌の山、解せない公文書の数々を前に、紀貫之は一人、机に向かっていた。

「どれもこれも、形ばかり。魂がこもっておらん……」

 形式美だけに囚われた宮廷歌人たちの歌に、貫之はひどく辟易としていた。お上の求める「正しい言葉」の限界に、彼は官僚としても歌人としても、息苦しさを感じていたのだ。

 職務として、提出箱から回ってきた重要書類の束を一枚一枚、厳しく点検していく。その時だった。束の中に紛れ込んでいた、奇妙な書類の数々。お上の土地計画を鮮やかに乱す、完璧な論理で書かれた地籍図の複写である。

 貫之はその表向きの書類を精読し、実務官僚として、何一つ文句のつけようがない精緻な文字の並びと完成度に唸っていた。非の打ち所がない正当な書類。そう判断した貫之は、ためらうことなく末尾に「検」の印を押し、その書類の束を上層部への決裁箱の中へと丁寧に納めた。

 すべては正しく処理され、箱に収まった。そう確信し、ふと引いた手の手元。

 決裁箱の底に収まった書類の、さらにその一番底から、およそ役所の決裁箱には似つかわしくない、薄汚れた一枚の紙が不自然にはみ出しているのが、彼の目に留まった。

「……なんだ、これは」

 公文書の端正な並びが途絶えたその場所に紛れ込んでいたのは、お世辞にも「お上の求める綺麗な清書」とは言えない、乱暴で、激しく、墨が至るところで掠れている、殴り書きの反故紙であった。

 しかし、貫之の目は、その文字に釘付けと化した。線の太さ、墨の呼吸、切なく艶やかな響きを持つ言葉の調べ。宮廷のルールをすべて嘲笑うかのような破調でありながら、人間の情念が、生の命の匂いが、紙面から溢れんばかりに脈打っている。そこに書かれていたのは、あまりにも強烈な恋の情動だった。


『人の身もならはしものをあはずしていざこころみん恋ひや死ぬると』


(人の身体というものは、恋をしても死なないのが普通だというが、あなたに逢えないまま、私は本当に恋い焦がれて死んでしまうのか、いざ試してみようではないか)


「な……んだ、これは……」

 言葉を失った。全身の血が逆流するような衝撃が、貫之の身体を貫く。一流の歌人として、そして文字を司る官僚として、理解してしまった。これは、今の宮廷の誰一人として到達できない、圧倒的な、天上の天才が書いた歌だ。

 あまりの美しさに息を呑みながら、貫之は震える手で、その殴り書きの文字を凝視した。

 一見すれば、ただの粗暴な悪筆。だが、線の引き方、跳ねの角度といった「筆跡の癖」に目を凝したとき、胸の奥が不意にざわついた。いま自分が点検していた、あの束の上のほうにあった精緻を極めた建前の文字。その筆跡の奥底にある奇妙な癖と、この歌の癖が、どこか似ているような感覚に捉えられたのだ。

(まさか、この歌を詠んだ者が、あの書類を……? いや、そんなはずはない)

 貫之は小さく首を振った。数年前に図書寮から完全に姿を消したと噂に聞く、「文字の化け物」と呼ばれた男の影が脳裏をかすめたが、とっくに宮廷を辞めて行方の知れぬ男が、今さらこのような場所に現れるわけがない。ただの奇妙な錯覚だと、彼はその疑念をすぐに打ち消した。

 ガタタ、と激しい音を立てて、貫之の座る椅子が下がった。彼の張り詰めた呼吸だけが、執飾室に響く。

 どこの誰とも知れぬ者が残した一枚の「破片」が、ついに宮廷の最高峰・紀貫之の心を、完全に打ち砕いた瞬間だった。この名もなき歌は、やがて貫之の手によって『古今和歌集』巻第十一に「よみ人しらず」として永遠に刻まれることになるのだが、今の貫之にあるのは、その正体への狂おしいまでの執着だけであった。


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