第十六話:鴨川の小石
第十六話:鴨川の小石
藤原国経の「下町大通り拡張計画」が奇跡的な白紙撤回となってから、三日。
たぬき屋の店先には、かつての重苦しさが嘘のような、賑やかで間の抜けた声が響き渡っていた。
「おい、お鈴ちゃん! ほら、この荷物は俺が運んでやるよ。大工の腕ってのはな、こういう時に使うもんなんだ」
長屋の若き棟梁、熊ゴロであった。がっしりとした体躯に不釣り合いなほど顔を赤くし、お鈴の持つ芋の籠を強引に奪い取ろうとしている。お鈴への好意が全身から溢れ出ているのは誰の目にも明らかだった。
お鈴は苦笑いしながら、その籠をひょいと引いた。
「もう、いいわよ熊ゴロさん。これくらい私一人で運べるってば。ほら、そんなところでうろうろしてると、うちの頑固親父が――」
「おのれ、熊ゴロォ! 泥棒猫め、俺の大事な箱入り娘に何の用だ!」
奥の厨房から、凄まじい勢いで飛び出してきたのは、お鈴の父親であり、たぬき屋の店主・為蔵であった。痩せっぽちで、風が吹けば吹き飛びそうな体躯でありながら、その一本気な気性は下町一である。手には、研ぎ澄まされた出刃包丁が握られていた。
「わ、親父さん、包丁は危ねえって!」
「うるせえ! お前みたいな色気づいた大工に、お鈴は一歩も近づかせん! 今日こそ、この為蔵が男のケジメをつけてやるわい!」
意気込んで包丁を振り回す為蔵だったが、熊ゴロに「はいはい、危ないからね」とあっさり手首を掴まれ、近所の常連客たちにも「親父さん、落ち着けって!」「危ねえから引っ込んでろ!」と、あっという間に後ろから羽交い締めにされてしまった。
「う、放せ! 俺はまだ戦える! お鈴、お鈴ぅ……」
あっけなく厨房へと引きずり戻されていく痩せっぽちの背中を晒されながら、為蔵は「とほほ……」と情けない声を漏らす。お鈴は「まったく、いつもなんだから」と呆れ顔だが、熊ゴロの不器用な優しさを分かっているからこそ、その様子を温かい目で見守っていた。
そんな下町の喜劇を、縁側に寝転がってうちわで仰ぎながら、退屈そうに眺めている男がいた。
「――おじちゃん! 旦那!」
賑やかな足音とともに、店先に飛び込んできたのは、長屋の住人の子どもたち三人であった。皆、川原で泥んこになって遊んできたらしく、着物の裾を黒く汚している。
男は薄目をあけ、めんどくさそうに頭をかいた。
「なんだい、騒々しいねぇ。おじちゃんは今、大忙しで昼寝の計画を立てている最中なんだが」
「嘘ばっかり! ほら、約束通り、オレたちに読み書き算盤を教えてくれるんだろ?」
太助と呼ばれた少年が、目を輝かせて男の着物の袖を引っ張った。
「ああ、分かってるよ。嘘はつかないさ」
男が気だるげに微笑むと、太助は「じゃあ、これ、文字を教えてもらうお礼に持ってきた。俺の一番大事な宝物なんだ」と言って、泥のついた小さな両手を男の前に突き出した。
太助の手のひらが開かれる。そこに載っていたのは、近くの川原で拾ってきたのであろう、大豆ほどの大きさの、妙に滑らかで透き通った、赤みの混ざる小石であった。価値のある宝飾品ではないが、夕暮れの光を吸い込んで、どこか妖しく輝いている。
男はゆっくりと身を起こすと、泥だらけの手から、その小さな石をそっと指先でつまみ上げた。子どもたちにとっては、価値など関係なく、ただ自分たちが見つけた一番綺麗な宝物だからこそ、ここに持ってきたのだ。
「へえ、こいつは驚いた。滅多にお目にかかれない大層な宝物だ。ありがたくいただくよ。これはおじちゃんだけの秘密の宝物だ」
男はそう言うと、懐の一番深いところへ、その小石を大切にしまい込んだ。
「わーい! じゃあ明日からよろしくな、先生!」
子どもたちは一斉に歓声を上げ、再び賑やかに走り去っていった。それを見送った男は、懐の石の重みを感じながら、ゆっくりと目を細めた。
その直後のことである。たぬき屋の店先に、一人の男が息を切らせて駆け込んできた。町外れにある、あのご隠居の使いの者であった。
「旦那、お鈴さん、いるか……! ご隠居からの伝言だ。『至急、今夜、熊ゴロも連れて庵へ来い。一刻を争う不穏な動きを掴んだ』とのことだ!」
使いの者のただならぬ様子に、店内の空気が一瞬で引き締まる。男は懐の石の重みをそっと確かめ、腰を上げた。
日が完全に沈み、下町が夜の静寂に包まれる頃、男、お鈴、熊ゴロの三人は、長屋を離れて暗い夜道を歩いていた。
向かったのは、町外れの鬱蒼とした林の奥に佇む、質素な庵であった。そこに隠棲しているのは、白髪の老人。市井ではただの気難しい爺として知られているが、その正体は、宮廷の裏表を知り尽くしたご隠居であった。
「――よく来たな。待っておったぞ」
庵の奥、かすかな蝋燭の灯りの下で、ご隠居は古い地籍図を広げながら三人を迎えた。その顔は、いつになく険しい。
「ご隠居、昼間っから急に使者なんかよこして、一体何事だ? 国経の野郎は、祟りが怖くて泣いて大通り計画を引っ込めたんだろ?」
熊ゴロが怪訝そうに尋ねると、ご隠居はふっと鼻で笑った。
「ああ、国経の奴なら、今それどころではないわ。お上の間では、あ奴の最新の噂話でもちきりよ。国経の野郎、年の離れた若くて美しい妻を、甥の若い俊英、藤原時平に一目惚れされて奪われてしもうてな。今や宮廷中の笑いものよ」
「ぶっ、なんだそりゃ! ざまあみやがれ!」
熊ゴロが大笑いし、お鈴も「まあ、因果応報ね」と呆れたように笑う。
しかし、ご隠居の顔から笑みが消えた。
「だが、問題はその先だ。恥をかかされた国経が、失った面目を取り戻すために動き始めておる。鴨川の東、庶民が代々暮らしてきた古い集落の土地を、朝廷の名のもとに根こそぎ収公しようという計画が、宮廷の内部で密かに進んでいるのだ。長屋の連中ではないが、同じように土地を奪われ、行き場を失う民が大勢出る」
「手口は?」
男が低い声で尋ねた。
「図書寮の古い地籍書類を書き換えて、もともとその土地が朝廷のものであったかのように見せかけるのだ。文字の読めぬ民には、何が書いてあるのか分からぬまま、ただ追い出されるだけよ」
男は地籍図を覗き込み、しばらく黙って指先で墨の線をなぞった。
それから、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「なるほど。文字で仕掛けてくるなら、文字で返すまでだ」
男はゆっくりと腰を上げた。
「さあ、夜も更けた。帰ろうじゃないか」
庵の小さな灯りが、三人の後ろ姿を見送るように、夜風の中でゆらりと揺れた。




