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天下無敵の詠み人知らず  作者: 沢 一人
文字は民の笑顔のために
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第十五話:物の怪の墨痕

第十五話:物の怪の墨痕

 藤原国経の書斎「松風庵」には、夕刻の影が忍び寄る前から、どこか冷ややかな空気が満ちていた。

 机を挟んで国経の前に端座しているのは、国経が莫大な報酬を支払って召し抱えているお抱えの陰陽師、安倍播磨守(あべのはりまのかみ)であった。今宵の意向は、今後予定されている下町の大通り拡張計画と、それに伴う新たな街の整備について、吉凶を占うためのものであった。

「――播磨守、此度の下町の整備、お上の間でもかなり期待が高まっておる。民を追い払い、道を広げ、新たな商いの場を作る。この計画を進めるにあたり、方角や日柄に障りは無いか?」

 国経が扇子を弄びながら尋ねると、播磨守は神妙な面持ちで占盤(せんばん)を見つめたまま、重々しく口を開いた。

「国経様、街を切り拓くというのは、大地の神々の眠りを覚ます行為にございます。実は……此度の計画地一帯を調べておりましたところ、いささか気になる不吉な前例を思い出し申した」

「不吉な前例、だと?」

 国経が眉をひそめると、播磨守は声を一段と低くし、蝋燭の炎に影を揺らしながら語り始めた。

「さる七十年前の事。時の公卿が、己の権勢を 示すためにある古い集落を潰し、壮麗な邸宅を建てようといたしました。その折、地元の民が『ここには古くからの神が眠る、祟りがある』と訴えたのをお上は無視し、力ずくで土を掘り返したのです。……すると、いかなることが起きたか。怨霊の怒りは風水の流れに乗り、その公卿の屋敷の『北東の角』――すなわち鬼門の土の下へと集まり、恐るべき呪いの楔となって突き刺さったのです」

「鬼門の、土の下だと……?」

「左様。邸宅が完成したその夜、主である公卿は、原因不明の狂病を発症いたしました。己の手で自らの喉を掻き切り、一族の者たちも次々と謎の変死を遂げ、わずか数年でその血筋は絶え果てたのです。後に屋敷の跡地を調べたところ、予言の通り、庭の鬼門から真っ赤な血に染まった呪いの骸が見つかったとか。大地の怒りを買った者は、生きながらにして地獄を見る……此度の下町も、古い土地だけに、みだりに動かすのは細心の注意が必要かと存じます。もし同じように鬼門へ呪いの楔を打ち込まれれば、国経様の一族とて、ひとたまりもございませぬ」

「一族が絶え果てただと……。よせ、そのような気味の悪い話を申すな」

 国経は不快そうに身震いし、不機嫌そうに手を振って播磨守を下がらせた。欲深い国経であったが、人一倍迷信深く、神仏や祟りの類いを病的なまでに恐れる男である。播磨守が去った後も、その「鬼門に打ち込まれる呪いの楔」の話が耳にこびりついて離れなかった。

 一人残された国経は、気を取り直そうと机に向かった。先ほどは気味の悪い書付として脇へ退け、再び政務に戻ったものの、どうにも胸騒ぎが収まらない。

 ふと視線を落とすと、公文書の上に無造作に置いたままの、あの格式高い巻物が目に入った。

「……やはり気になる。」

 国経はゆっくりと巻物を手に取り、改めて紐を解いた。

 次の瞬間、その目は驚愕に見開かれた。

 そこに流麗な、力強い筆致で並んでいる崩し字は、どこをどう見ても、国経自身の手によるものであった。

 墨の吸い込み具合、筆の入り方の絶妙な角度、すると文字の結びに見られる彼特有の小さな癖まで、完全に一致している。何より、末尾に据えられた署名と花押(かおう)は、国経が毎日のように公文書に捺している本物そのものであった。

だが、国経には、この書類を書いた記憶が微塵もなかった。

 書かれている中身は、驚くべきことに、彼がこれまで血眼になって進めていた「下町の大通り拡張計画」の全面的な凍結と、そこに住む無名な民たちの立ち退きを一切免除するという、自分にとっては一文の得にもならない命令であった。

「麻呂が……この藤原国経が、あのような泥臭い下町の平民どもを憐れんで、自ら計画を取り下げるなどという奇特な真似を、正気でするはずがなかろう。しかし、この筆痕はどうだ。間違いなく、麻呂の右手を筆が握り、墨を引いている……」

 国経はがたがたと小刻みに震える指先で、巻物の端をなぞった。全身の毛穴から冷や汗が噴き出してくる。

 物の怪の類いが麻呂の魂を抜き取り、麻呂の右手を借りてこの呪わしい命令書を認めさせたのではなかろうか。

 恐怖に怯えながら、国経は恐る恐る巻物を裏返し、そこに添付されていたもう一枚の書状に目を落とした。そこには、おどろおどろしい格 式高い役所言葉で、凍結の「真の理由」が書き連ねられていた。

『そもそも、当該の地は延喜の御世より遥か昔、神代の時代より非業の死を遂げた者たちの怨霊が鎮まる、底無き祟り地なり。みだりに地を掘り返し、通りを広げんとすれば、地脈が乱れて地主神の逆鱗に触れ、計画を主導せし者の命を縮めん。それにとどまらず、呪詛の業火はその一族郎党、末代に至るまで焼き尽くし、生きながらにして地獄の苦しみを味わうこととならん。これを畏れ、計画は即座に白紙とすべし――』

「……末代に至るまで焼き尽くす、だと? ええい、不吉な! 誰か、誰か! 早く、播磨守を呼び戻せ! 今すぐ、一刻の猶予も無く、ここへ連れてまいれ!」

 国経は狂ったように叫び、部屋の隅の柱にしがみついた。先ほど播磨守から聞いた「鬼門に呪いの楔を打ち込まれ、自ら喉を掻き切った公卿」の不吉な風水の予言が、鮮烈な恐怖となって脳裏に蘇る。あの話は、まさに今の自分に対する前触れ、予兆だったのではないか。

 廊下を血相を変えて走ってきた安倍播磨守は、書斎の畳に平伏した。

「国経様、いかなる緊急の事態でございましょうか」

「播磨守! 先ほどの話じゃ! お前が去ったすぐ後、この書状が机の中から現れた!」

 国経は柱の陰から這い出し、床に転がっていた巻物を指差した。

「麻呂自身の筆跡で、下町の開発を止めると書かれておる。更に添付の古文書には一族郎党呪い殺されると。

 麻呂には、これを書いた覚えが全くないのじゃ! これは、やはり物の怪の仕業か? 先ほどの予言の通り、麻呂が悪霊に取り憑かれておるのか!?」

 播磨守は眉をひそめ、促されるままにその巻物を手に取った。

 表面の文字を注視し、さらに古文書の「祟りの理由書」を読み進めるうちに、陰陽師の表情はみるみるうちに厳しく、状況の異常さに顔を曇らせた。

(何という達筆だ。民部省の古い記録にある、  公文書の最高格式の書風そのものではないか。しかも、国経様の筆跡と寸分違わぬ。これほどの文字を、人間の手が偽れるはずがない。ということは……これは人間の仕業ではない。やはり、目に見えぬ強大な霊力が、国経様の身体を借りて書き残した警告……!)

 一流の陰陽師である播磨守の頭は、完全に男の超絶技巧によって騙され、誤った方向へと全力で回転を始めていた。男の文字があまりにも完璧すぎたがゆえに、かえって「怨霊が起こした奇跡」としか思えなくなっていたのである。

「国経様、お心を落ち着けてお聞きくだされ」

播磨守は巻物を恭しく掲げ、厳かな声で言った。

「この文字には、人間の邪念ではなく、もっと 根深い、大地の底から湧き上がるような怒りの霊気が宿っております。国経様が知らぬ間にこれを書かれたということは、貴方様の守護霊、あるいは神仏が、貴方様が一族もろとも破滅の穴に落ちるのを救わんがため、その右手を借りて警告を発したに違いありません」

「な、やはりそうか! では、あの下町の土地には、本当に恐ろしい祟りがあるのだな!?」

「おそらくは。しかし、これほどの警告が出るということは、すでにその怨霊の魔の手が、このお屋敷のすぐ近くまで迫っている可能性がございます。国経様、麻呂が今から占盤を回し、この屋敷の吉凶を改めて占いまする」

 播磨守は木製の占盤を取り出すと、書斎の中央に据え、呪文を唱えながらカチカチと盤を回し始めた。

 国経は息を殺し、陰陽師の手元を凝視する。

 四方の神々の名を呼び、星の運行を指で数えていた播磨守の手が、ある一点でピタリと止まった。彼の顔から、すうっと血の気が引いていく。

「こ、これは……なんということだ……」

「どうした、播磨守! 何が出たのじゃ!」

「国経様……。先ほど私が予言した不吉な前例と、全く同じ卦(け)が出ております! この屋敷の『北東の角』、すなわち鬼門の方角から、言葉に尽くせぬほど濃厚な邪気が噴き出しております! 怨霊はすでに、あの七十年前の公卿と同じように、この敷地内に『呪いの楔』を打ち込んでおりますぞ!」

「ひえええっ!」

 国経は情けない声を上げ、机の下へと潜り込んだ。

「国経様、お許しをいただき、今すぐ北東の庭を掘り返し、邪気の正体を突き止めねば、今夜中にもこの屋敷に災いが降りまする!」

「うむ、許す! 許すから、早くその邪気とやらを消し去ってくれ!」

 播磨守はすぐに数人の随身(ずいしん)を呼び寄せ、松明(たいまつ)を持たせて夜の庭へと飛び出していった。国経も恐怖に震えながら、随身たちの後ろに隠れて、おそるおそる中庭へと続く廊下からその様子を窺った。

 庭の北東の角には、大きな松の木が佇んでいる。

 松明の赤い炎が不気味に揺れるなか、播磨守は松の木の根元を指差した。

「ここじゃ! ここから、禍々しい地響きのような霊気を感じる。者ども、そこを掘れ! 深く掘るのじゃ!」

 随身たちが鍬(くわ)を取り出し、夢中で松の木の根元の土を掘り返し始めた。ザク、ザクと、夜の庭に土を削る音だけが響き渡る。国経は胸を突き出すようにして、生唾を飲み込んだ。

 五寸ほど掘り進めたその時、随身の一人が「あッ」と短い声を上げた。

「播磨守様! 何か……妙なものが埋まっております!」

「何だと、慎重に取り出せ!」

 随身が泥まみれの手で土の中から引き抜いたのは、布に包まれた平たい物体であった。播磨守がそれを受け取り、震える手で泥を拭いながら布を開く。

 中から現れたのは、真っ赤な朱色の文字でびっしりと呪文が書かれた古い札と、臨場感あふれるどす黒さに変色した、不気味な獣の骨であった。

 もちろん、これはすべて、昼間に熊ゴロたちが松の木の根元に仕込んでおいた、物理的な罠の成果であった。しかし、そんなことを知る由もない播磨守は、自らの占いの結果が示す「北東の異常」と、現実に土の中から現れた「呪いの証拠」の完璧な一致に、脳が完全に恐怖へ支配された。先ほど自分が語った風水の予言が、そのまま現実の脅威として目の前に現れたのだから、驚かないはずがない。

 松明の炎に照らされたその骨と札を見た瞬間、安倍播磨守は「ひッ……! 予言の通りじゃ……!」と短い悲鳴を上げ、地面にへたり込んだ。彼の目は恐怖に大きく見開かれ、額からは大粒の汗が流れ落ちる。

「こ、これは……本物じゃ。私が先ほど申した、七十年前の公卿の屋敷から出たものと全く同じ、鬼門に打ち込まれた凄まじい怨念の楔……! 占いの通り、あの下町の土地を掘り返そうとした国経様を呪い殺すため、怨霊が自らここに姿を現したのじゃ……!」

 一流の陰陽師である播磨守が、本気で腰を抜かした。その姿を見た国経の恐怖は、ここにきて完全に頂点へと達した。

「れ、霊験あらたかなる播磨守が腰を抜かすなど……。おのれ怨霊め、これ以上近寄るでない! 許せ、麻呂が悪かった!」

 国経は廊下に五体投地し、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、激しく額を床に打ち付けた。

「播磨守、何を呆然としておる! 今すぐ、今すぐ民部省へ使者を送れ! 下町の大通り計画は全面白紙じゃ! 明日と言わず、今この瞬間から、あの土地には一歩も立ち入ってはならぬと役人どもに命じよ! 立ち退きの免除の書類にも、麻呂が今すぐ本物の公印を捺してやる! だから、その呪いの骨をどこか遠くへ、麻呂の目の届かぬところへ片付けよぅ!」

 国経の絶叫が、夜の屋敷に虚しく響き渡った。欲に目が眩んでいた悪徳貴族は、男の仕掛けた完璧な「文字と迷信の罠」の前に、完全に戦意を喪失し、自ら降伏を宣言したのである。

◇

 翌朝、下町の空気は、昨日までの重苦しさが嘘のように、どこまでも澄み切っていた。

 たぬき屋の店先には、大工の熊ゴロをはじめ、長屋の住人たちが大勢集まり、割れんばかりの歓声を上げていた。彼らの手には、民部省から正式に届けられた、国経の「大通りの計画凍結と立ち退き免除」の本物の公印が捺された通達が握られていた。

「おい、見たかよ! 本当にお上が計画を取り下げやがったぜ!」

「熊ゴロさんたちが屋根の修繕に行った途端、国経の野郎、急に腰を抜かして『あの土地には呪いがある』なんて騒ぎ出したらしいな!」

「何でも、お抱えの陰陽師が庭からお化けの骨を見つけて、ひっくり返ったんだとさ! ざまあみやがれ!」

 長屋の面々は、自分たちの長屋が守られたことに大はしゃぎし、互いの肩を叩き合って涙を流して喜んでいた。お袋の形見の長屋を守り抜いた熊ゴロも、豪快に笑いながら、何度も通達の紙を天に掲げている。

 その喧騒から少し離れた店内の奥で、男はいつも通りのだらしない格好に戻り、縁側に寝転がって、のんびりと煙管(キセル)をくゆらせていた。

 お鈴が、淹れたての温かいお茶を持って男の側に歩み寄る。

「あんた、本当にやっちゃうんだもんね。お城の元役人のご隠居も、国経もお抱えの陰陽師も、あんたの書いた文字一枚に、文字通り踊らされちゃってさ」

 お鈴が呆れたような、どこか誇らしげな笑みを浮かべて言うと、男は煙をふうっと空へ逃がしながら、飄々としたいつもの口調で笑った。

「言ったろ、お鈴ちゃん。お上が文字っていう綺麗な罠で民を嵌めるなら、こっちはその上をいく文字の影武者で化かしてやるだけさ。欲深い奴ほど、自分の犯した罪が怖くて、神仏の罰や祟りに人一倍怯えるもんなのさ。あいつらは文字の力を信じ込んでいるからこそ、文字に騙されるんだよ」

 男は煙管の吸い殻をトントンと灰皿に落とし、満足そうに目を細めた。

「まあ、何はともあれ、これで長屋の皆の笑顔が守られたんだ。めでたしめでたし、だろ?」

 店外からは、再び長屋の住人たちの賑やかな笑い声が聞こえてくる。悪政という巨大な権力の壁を相手に、下町の知恵と執念がもぎ取った、これ以上ないほどに痛快で、鮮やかな大勝利であった。


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