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第10章 帰郷、そしてそれから

 パリの家は、以前と変わらずに僕を出迎えてくれた。

 赤い屋根、白い壁、蔦の這う門構え。

 懐かしさが不思議と薄れていた。

 まるでずっとここにいたかのような気にもさせられる。

 ヴェネツィアでの出来事など、無かったかのように。


(いいや、そんなことはない)


 深緑のサングラスをかけたまま、僕は家に入らずに裏庭へ向かう。

 カシャッ。カシャッ。

 見慣れた風景にカメラを向けて、幾度となくシャッターを切る。

 シャッターを切る手にはまったく迷いがなかった。


 もう『盾』じゃない。

 これは、このカメラは、僕が『ここにいる』と伝える方法なんだと知ったから。


 深い緑色の視界が、ずっと温かみを帯びたように見えた。

(……)

 ふと思った。

 サヴィーヌは、もし今の僕を見たら…また言ってくれるだろうか。

 あの優しい、低めの声で。少し微笑んで。


『あなたの眼は、空に似ている』


 そんな声が、耳の奥で揺れた気がした……


 最後に、ファインダーを空へ向ける。

 もう、迷わない。

 オッドアイも、『エミール』の名も、すべてを受け入れ、自分として生きていく。

 呪いではなく、自分の一部として……

 それが僕が僕である証になる。


 カシャッ………


 雲ひとつない青い空を撮った後、僕は玄関に向かって歩いた。

 呼び鈴を押すと、中で誰かの気配が感じられた。鍵が外され、扉が開く。


「ただいま」


 待っていてくれた母や妹、それにリナンに僕は笑顔で告げた。




 それから数ヶ月が過ぎた。

 リナンが家を仕切ってくれるおかげで、僕は高等学校に通う傍ら、カメラにも集中することができた。

 母や妹も、やりたいことが見つかったという僕に対してとても喜んでくれた。

 ヴェネツィアではハリーしか撮っていなかったけれど、母と妹の写真も積極的に撮った。

 そして、もっと外に出て人物や風景をたくさん撮りたいと思うようになった。


 街の写真屋のつてもあって、カメラマンの助手の仕事を手伝うようになった。

 初めはアルバイト。卒業後は本格的にカメラの勉強をし始めた。

 新しい世界がどんどん広がるようで、楽しくてたまらなかった。

 戦場から帰ってきた日のような絶望感はすっかりと消え失せていた。

 生き生きとした生活を送れることが、こんなにも毎日を輝かせて見せるのだと気づかされた。


 そして……



 暖かな春の日差しが降り注ぐ午後。

 写真雑誌のコンテストに応募する作品を撮るため、僕は悩んでいた。

 手帳に描いたいくつかの構図は、どれもピンと来ず、使い物にならなかった。

 僕はカフェのテラス席に座り、空になったエスプレッソカップを眺めていた。

(……困ったな、こんなことじゃコンテストに間に合わない)

 息をつき、ふいにこちらに近づく足音に気づいた瞬間だった。

 その声は、まるで昨日の続きみたいに聞こえた。


「……お前、まさかこんなとこで構図の研究してんのかよ?」


 振り返ると、ハリーがいた。

 革のジャケットにデニム、ごついエンジニアブーツ、いたずらっぽい眉の動き、そしてほんの少し伸びた無精ひげ。あの日以来の……変わらないどころか、余計に『らしく』なっていた。

「ハリー……どうしてここに?」

 僕が目を丸くして聞き返すと、ハリーは少し口を歪ませて笑う。

「こっちのセリフだよ、まったく。お前はてっきり戦場のど真ん中とか思ってたぞ」

「僕を何だと思ってるんだ……」

「いや褒めてる」

「それのどこが褒めてるって?相変わらず失礼なことをズケズケと言うね」

 軽くムッとした言い方で返す。

 ハリーはあの時よりも少し伸びた砂色の長い髪をかきあげて、飄々とした口調で言った。

「で、俺? そこの角にある三つ星レストランの厨房の手伝いにきた。知り合いの紹介」

「それは……まったくイメージに合わないな。サンドイッチやパスタみたいな軽食を出す店じゃないんだろ?」

 思わず笑ってしまった。

 彼は肩をすくめて「お前こそ、ズケズケ言いすぎだろ」と笑い返す。

「俺の味付けには定評があるんだぜ」


 ふと、ヴェネツィアのあの店を思い出した。

 元気かな、あの無愛想なマスターは……


 ハリーは向かいの椅子に腰を下ろして、僕の手帳を盗み見る。

「へえ、撮ってんの? 人間」

「…うん、少しずつね」

 彼の視線が、僕の胸元へと落ちた。

 シャツのポケットに引っ掛けているサングラス。あの深緑より少し透明度が上がったモデル。

 ヴェネツィアでハリーに買ってもらった物は残念ながらフレームを折ってしまい、これは2本目だ。

「……まだその系統、使ってんのな。気に入ったか?」

「もちろん。最初の一本はもらいものだったけれど、まだ大事にしまってある」

「ありゃあ『貸した』んだ」

「……貸したままでいてくれて、ありがとう」

 クスッと笑って返す僕。


 あの時言えなかった『ありがとう』が、こんな形で言えるなんて。


「チェッ」

 彼は舌打ちして、横にある僕のカメラバッグを指差した。

 そして初めて会った頃と同じように、ニヤリと歯を見せて笑った。

「前より良いカメラ、使ってんな。今度はきっちり撮れよ。俺、ちょっとだけなら大人しく笑ってやる」

「それは貴重だね」

 気が変わらないうちに。

 僕はまずサングラスをかけ、続いてバックから取り出したカメラをハリーに向けた。


 『らしい』ハリーをレンズ越しに見て、なんだかとても安心した。


 カシャッ。


 シャッター音が響く。

 深緑色の午後の街は穏やかで、流れる時間はいつもより緩やかだった。



fin.


2025.08.05up

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