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感情ハッカーの僕が世界を変える理由  作者: 雨音トキ


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12「魂の暗夜」

午後11時。

ユウトは政府の巨大なビルの前に立っていた。

高さ30階を超える黒いガラスの建造物は、夜空に向かってそびえ立ち、まるで巨大な墓標のようだった。無数の窓に明かりが灯り、そのひとつひとつがユウトを見下ろしているような錯覚を覚える。

手には白い封筒が握られていた。投降届けの用紙——自分の異能力を政府に差し出し、軍事利用に協力することを誓約する書類だった。

「これに署名すれば、母さんは解放される」

ユウトは震える手で封筒を見つめた。たった一枚の紙切れが、自分の人生すべてを決めてしまう。

足が前に進まない。

建物の入口に立つ警備員が、ユウトの存在に気づいた。彼らの首筋には青白く光るマインド・シンクのチップが取り付けられている。人間としての感情を制御され、完全に任務に忠実な存在へと変えられた人たち。

「もし僕が投降すれば、僕もあの人たちと同じになるのか?」

頭の中で母親の声がよみがえった。

『ユウト、あなたは私の誇りよ。どんなことがあっても、あなたらしく生きて』

でも、母さん。僕がいるせいで、あなたが苦しんでいる。

『お母さんはユウトの味方だから』

あの優しい笑顔。咳き込みながらも、いつもユウトを気遣ってくれた母親。

ユウトは封筒を胸に抱きしめた。

「僕がいなければ、みんな平穏だった。美月だって、本当は普通の女の子として生きたかったはずだ。クラスのみんなも、僕なんかがいなければ巻き込まれることもなかった」

風が吹いて、街の雑音が遠くから聞こえてくる。夜の街で普通に生活している人たちの声。システムに管理されていても、少なくとも平和に暮らしている人たち。

「僕だけが異常なんだ。僕だけが、システムから外れた存在なんだ」

ユウトの目から涙が溢れた。

「ごめん、母さん。僕、弱い人間で……」

彼は一歩前に踏み出した。警備員たちがこちらに向かってくる。

しかし、その時だった。

警備員の一人が突然立ち止まり、首筋のチップを確認している。どうやらシステムエラーが発生したようだった。他の警備員たちも同様に、一斉に動作を停止した。

「システムメンテナンス中……」

機械的な音声が警備員たちから流れる。深夜のメンテナンス時間だった。

ユウトはこの隙に、その場から静かに立ち去った。投降する決意は固まっていたが、今夜ではない。もう一度、母親との思い出を整理してから向かおう。

ユウトはアパートに戻った。部屋は相変わらず荒らされたままだった。倒れた本棚、散乱した書類、壊れた写真立て。まるで嵐が通り過ぎた後のような惨状。

片付ける気力もなく、ユウトは床に座り込んだ。

ふと、足元に落ちている古いアルバムに目が止まった。母親の若い頃の写真が入ったアルバムだった。政府の人間が探し回った際に、本棚から落ちたのだろう。

ページをめくっていくと、見覚えのない男性の写真が出てきた。

「これ、誰だろう……」

白衣を着た初老の男性が、研究室らしき場所で笑顔を浮かべている。背後には複雑な機械装置が並んでいる。

写真の裏を見ると、小さな文字で書かれていた。

『マインド・シンク開発チーム・2035年・中央研究所にて』

そして、端の方に小さく『義父と』という文字。

「父って……僕の祖父?」

ユウトの心臓が高鳴った。祖父がマインド・シンクの開発に関わっていただなんて、一度も聞いたことがなかった。

アルバムをさらにめくると、写真に挟まれるように古い紙切れが出てきた。それは日記のページのようだった。

『2035年3月15日

今日、ついにマインド・シンクの人体実験が成功した。被験者の感情を完全にコントロールすることができた。これで人類から争いがなくなる。戦争も、犯罪も、すべてなくなるはずだ。

でも、本当にこれでよいのだろうか?

人間の感情を管理することが、本当に人類の幸福につながるのか?

息子を見ていると、時々不思議な現象が起きる。まるで他人の感情を読み取っているかのような反応を示すことがある。これは偶然なのか、それとも……』

『2035年8月20日

息子に確実に能力が遺伝していることが判明した。彼は他人の感情を色として視覚化できる。これは私が開発したシステムとは真逆の能力だ。

システムは感情を制御する。しかし息子の能力は、感情を理解し、共感することに特化している。

もしかすると、これこそが人類に必要な進化なのではないか?

機械的な制御ではなく、深い理解と共感による調和。』

ユウトの手が震えた。

父親にも、自分と同じ能力があった。そして祖父は、マインド・シンクの開発者でありながら、その技術に疑問を抱いていた。

日記の最後のページには、こう書かれていた。

『孫に託す。正しい道を選んでくれ。システムが暴走した時、君の能力こそが人類を救うのかもしれない。』

深夜2時。ユウトは祖父の日記を何度も読み返していた。

「僕の能力は、祖父が残してくれた希望だったのか……」

これまで自分を異常者だと思っていたが、実際は人類の未来のために必要な能力だったのかもしれない。

システムが人々の感情を一方的に制御する一方で、ユウトの能力は相手の感情を理解し、必要であれば癒すことができる。制御ではなく、共感。支配ではなく、調和。

その時、ポケットの古い携帯電話が震えた。

メッセージが届いている。送信者は不明だが、暗号のような文字列が並んでいる。

ユウトは学校で習った暗号解読法を思い出しながら、慎重に解読していく。

『諦めないで。まだ方法がある。地下研究所。座標:N35.6762, E139.6503. 私を信じて。 —M』

最後の「M」が意味するのは、間違いなく美月だった。

ユウトは立ち上がった。

「美月……まだ僕を信じてくれてる」

窓の外を見ると、東の空がほんのり白み始めていた。新しい日が始まろうとしている。

「最後まで戦おう。祖父の意志を継いで、本当の調和を実現するために」

ユウトは祖父の日記を胸に抱いた。もう迷いはなかった。投降届けの封筒を破り捨て、座標をスマートフォンに入力する。

希望は、まだ残っている。


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